「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

置かれた場所で咲く

 (この文章は2017年1月1日にかいたものです。)

 

人がこの世を去る時、その命と引き換えに、どんなものにも代え難い素晴らしいプレゼントをこの世に残していく。

 

残された人が、その後を生きていくための”光”を必ず残して人はあの世へと旅立つ。

 

宮沢賢治さんの「永訣の朝」のように。

 

そして残された人は、その時は悲しみに飲み込まれて、その”光”のプレゼントの真の意味や祝福にはすぐには気づけない。

 

 けれど、時間が経てば経つほどに、その”光”にどれほどに支えられて生きてこられたか、そしてそれがどれほどに自分を大きく成長させたか、その意味や祝福にだんだんと気づかされて、本当の愛の深さを思い知る。

 

”死”とは人が最期にできる一番の贈り物なのかもしれない。

 

 

そして同じように、誰か著名な方が亡くなる時というのは、その方の思想や生き方が、広く世の中にクローズアップされる必要があるタイミングで旅立たれるように感じることが多々ある。

 

まるで、寿命を迎える星が超新星爆発するかの如く、その命と引き換えに、強烈な光を解き放ち、”新しい星”の種となる”愛”を惜しみなく周囲に振り撒きながら、最期に私たちに大きな大きなプレゼントを置いていって、そのお役割を果たし終えてから旅立ってくれるように思える。

 

新しい年を迎える直前の2016年大晦日、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが12月30日に亡くなられたというニュースを知る。

 

なんとなく気になって、改めて渡辺和子さんの著書、ベストセラーの「置かれた場所で咲きなさい」、「幸せはあなたの心が決める」、「面倒だから、しよう」の3冊を早速購入して読む大晦日となった。

 

やはり、今だからこそ心に響く珠玉の言葉に溢れていて、年末年始の節目に手に取り読むことができてよかったなと思う。

 

 

一部ご紹介。

 

 

「人生にポッカリ開いた穴から、これまで見えなかったものが見えてくる。」「思わぬ不幸な出来事や失敗から、本当に大切なことに気づくことがある。」

 

「一生懸命はよいことだが、休息も必要。働くことは素晴らしい。しかし、仕事の奴隷になってはいけない。」

 

「いい出会いにするためには、自分が出会いを育てなければならない。」「出会っただけでは信頼関係は結べない。このご縁を大事にしようという気持ちを育てていこう。」

 

「生き急ぐよりも心にゆとりを。時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。」「待つことで、心にゆとりができると気付いた時、生きている現在は、より充実したものになる。」

 

「倒れても立ち上がり、歩き続けることが大切。時には立ち止まって休んでもいい。再び歩き出せるかが、目標達成の分かれ道。」

 

「人間の自由とは諸条件からの自由ではなく、それら諸条件に対して自分のあり方を決める自由なのだ。」

 

「愛は、決して相手を不自由にするものではありません。愛とは、相手をより自由にするものでこそあれ、縛り、殺すようなものであってはならないのです」

 

「ほかの人になる必要はない。また、ほかの人をあなたと同じだと思うのは大間違い。私たちの一人ひとりが、かけがえのない存在。人と比べて落ち込まなくていい。」

 

他にも心に響く言葉がたくさん。一部を抜粋。

 

 

そして、

 

「置かれた場所で咲きなさい。咲くということは、仕方ないとあきらめるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです。」「置かれた所こそが、今のあなたの居場所なのです」

 

 とくに、本のタイトルでもあるこの言葉が胸に響く。この言葉で思い出すのが、2016年象徴的だったSMAPの解散で再びヒットした「世界に一つだけの花」という曲。

 

2016年は個人的には、花を咲かせる以前の、暗い土中にてひたすら芽を出す前に根を張るような”形や成果がみえない”地道な一年だったように思う。土中で青空さえも見えず、早く土の中から出たいのに、このままもしかしたら青空さえも見ず、花さえも咲かずに終えてしまうのではないかと疑いたくなるようなジレンマの日々に、何度も心が折れそうにもなった。

けれど、周りの人に支えられながら、年の終わりには、栄養を蓄えて、ようやく土の中から芽を出せそうかな?という光を感じられた。

 

2017年、今年も周りの人たちへの感謝を忘れずご縁を大切にしながら、青空の元、風を感じながら自分の置かれた場所で地道に根を張りながら、私なりの花を咲かせられるような一年にしたい。

 

私には私でしか咲かせられない花がある。

 

それを楽しみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

『邪魔になったサンタクロース』

 

*2015年12月 第四回目の「超ショートショート講座」で作った自作ショートショートです。


『邪魔になったサンタクロース』


作・わたし

 


時は2015年、師走。

年の瀬がせまる夜の街。

街路樹は煌びやかなイルミネーションに彩られ、街ゆく人々はあと数日にせまったクリスマスのプレゼントを探し求め、街中が賑わい華やいでいた。

そんな中、街の賑わいから少し離れた場所にある、人気のない小さな公園のベンチに、「ハァー」と大きなため息をつきながら1人うなだれる大男がいた。

その大男の名は「サンタクロース」。

そう、かの有名な「サンタクロース」である。

あと数日もすれば時の主人公、子ども達のヒーローになる、あの「サンタクロース」がナゼこんなところでため息などついているのだろうか?

そもそも、クロネコヤマト並みに繁忙期の最中であろうはずの彼に、そんな暇などないはずである。

ではナゼ?

答えは簡単だ。ため息をつけるほど彼は暇だったからであった。

 


「本当はサンタなどいやしない」
「サンタなんて、どうせ親でしょ?」


”サンタいない説”をカミングアウトする大人と、サンタの正体を知ってガッカリしてしまった子どもの間に、いつしかクリスマスは「おねだり」と「ご褒美」のギブアンドテイクの日になりかわってしまって以来、本家本元のサンタクロース達の仕事も年々激減していたのだった。。

世の風潮とは慎に怖ろしいものだ…

「このままではサンタJrも養えん…」

と、仲間達は次々と赤いスーツを脱ぎ捨て、白ひげを剃り落し、サンタ業を廃業し転職していった。

生活に困窮した仲間の中には、先祖代々受け継がれた大事なソリをオークションに出品し売ってしまうものもいた。
(ちなみに高値で競り落とされたようだ…)

長年連れ添った大切な相棒のトナカイさえも養えず、泣く泣く動物園に手放すものもいた。

それどころか、中には仲間に無断で”サンタマーク”や”サンタロゴデザイン”などを勝手に商標登録し、サンタグッズを販売したり、トナカイやソリのレンタル業を始めたり、金に目が眩んだ仲間達は次々とサンタを辞めてサンタビジネスに流れていったのだった。

「あいつも…そして、あいつも…
みんな変わってしまった…
きっとこのままじゃ、いつかワシも…
この自慢の白ひげを剃り落とすことになるかもしれん…」

サンタはそう、やるせなくポツリ呟くと、再び「ハァー」と大きなため息をついて、ただただうなだれるばかりであった。

 

「…あのー、おとなり空いてますか?」

サンタが慌てて顔を上げると、目の前に1人の女が立っていた。

見るからに仕事帰りであろう仏頂面したその女は、ひどくくたびれている様子だった。

「え、ええ!ど、どうぞどうぞ…」

慌ててサンタが返事をすると、仏頂面の女はぶっきら棒に会釈をし、サンタの真横にドスンッと腰を下ろしたかと思うと、「ハァー」と、大きなため息をひとつつき、自分の肩をトントン叩いたり、首をぐるぐる回しはじめたのだった。

その様子を見かねたサンタは思わず女に話しかけた。


サ「…あのー、ずいぶんとお疲れのご様子ですね…」

女「…ん?あ?ひょっとしてあたしに話しかけてんの?」

サ「はい…ずいぶんお疲れだなぁと…」

女「…そうなのよ。あたし、もうグッタリなの。…ほら年末でしょ?年末進行ってやつで、サンタ並みに忙しいの」

サ「…サンタ並みにですか…はぁ…
年末進行、何ですかそれ?」

女「…あぁ、あたしね、本作ってんの、本。この仕事ってね、特に年末忙しくって。…全然っ、終わんないから、もう今晩はさっさと帰ることにしたの」

サ「…はぁ…本ですか…それは大変ですなぁ」

女「…まぁーねー」

サ「でも、仕事が忙しいのはなによりじゃないですか?……うらやましいかぎりですよ…」

女「…まぁーねー。でもね、今の時代、本が売れないからさぁー、結構大変なんだよー」

サ「…はぁ…そうですか…それはそれで大変ですなぁ…」

女「…まぁーねー。あ、ところでおじさんは?ここでなにしてんの?」

サ「……」

女「…あ、もしかして聞いちゃマズかった?」

サ「…いや、マズくはないが」

女「……」

サ「……」

女「…それにしてもさぁ、おじさん、すっごいヒゲだよね。実はねあたし、さっきからずーっと気になってたの。遠くから、なんかベンチに暖かそうなヒゲのおじさんがいる~って、そのヒゲ超ー目立ってたから。ほらあたし疲れてるせいかおじさんが段々お布団にみえちゃって!気づいたら吸い寄せられるようにここに来ちゃってて。
…あ、ごめんなさい!あたし超失礼なこと言っちゃったね!」

サ「…いや、かまわんよかまわんよ」

女「それにしてもおじさん、そのヒゲ。ここまで伸ばすの大変だったでしょ?なんでそんなに伸ばしてるの?えっと、ファッション?趣味?願掛け?」

サ「…いや」

女「え?じゃあ、仕事でとか?」

サ「…まぁ、そういうことじゃ」

女「こんなヒゲがゆるされる仕事って、、なんだろう?だってそのヒゲ、カーネルおじさんの比じゃないもん。ってか、サンタ並みじゃん。あっははは~!」

サ「…まぁ、そういうことじゃ」

女「え?」

サ「…そういうことなんじゃ」

女「…え?なに?そういうことってどういうこと?」

サ「…サンタクロースなんじゃ」

女「…誰が?」

サ「…ワシがじゃ」

女「…おじさんが?」

サ「そうじゃ」

女「…本当に?」

サ「本当じゃ」

女「……えーーー!!うっそ~?!信じらんないーー!!ってか、サンタがこんなとこで油売ってて大丈夫なの?今超ー忙しい時じゃん!なに?もしかして仕事の合間の一服中に私サンタに遭遇しちゃった?え、私もしかして超ラッキー?」

サ「……」

女「あ、ごめん!大っきい声で!みんなにバレちゃうね!折角の一服中、ゆっくり休んでられないでしょ。ごめんごめん!…えっと、、、あ、私そろそろ行くね!おじさんゆっくり休んで!お互い年末進行で忙しいけど、頑張って山場のりこえて良い年迎えましょうね!」

サ「あ、い、いやっ!待ってくれ!大丈夫なんじゃっ!だから行かんでくれっ!」

女「…はい?」

サ「ぜ、全然、忙しくないんじゃっ!」

女「…え?」

サ「暇なんじゃっ!」

女「…サンタが?」

サ「…そうじゃ、サンタがじゃ。…暇すぎて困ってるんじゃ…
だから、まだ居てくれてもかまわないんじゃ…」

 

キツネにつままれたようにキョトンとする女に、サンタは自分の境遇について懇々と話して聞かせたのだった。

 

女「…そっかぁ~。今どきはサンタさんも大変なんだねー。」

サ「…そうなんじゃ…」

女「それじゃあ、お子さんや奥さん養うのも大変でしょ~?ソリとかトナカイの維持費なんかもかかるんじゃないの?」

サ「…そうじゃのぉ…」

女「そーだよねぇ…」


そう言うと、おもむろに女は立ち上がり、近くの自販機へ行き、缶コーヒーを両手に持って再びベンチに戻ってきて、サンタに一本缶コーヒーを手渡した。


女「飲まない?ずっと座りっぱなしで冷えちゃったでしょ?缶コーヒーだけどよかったら」

サ「ワシにか?…あぁ、すまない。ありがとう、いただくよ」

 

サンタは缶コーヒーを女から受け取ると、
しばらく両手で缶を大切に包み込むように握りしめ、手に伝わる温もりに安堵したのだった。サンタの横で女は、缶コーヒーをカシュッと音を立てて開けると、コクコクと飲みながら「あったまるね」と呟いた。

 


サ「…いつから、みんなは信じなくなったんじゃろぉ…」

女「え?サンタのこと?」

サ「…そうじゃ」

女「う~ん。そぉねぇ…サンタって姿形が見えないからかなぁ?」

サ「…見えないから?」

女「うん。あ、でも、見えないから逆に、”いて欲しい”って想像を膨らませて、信じようとするのかもしれないけど」

サ「……信じようとするか、、、
そりゃそうと、お前さんは想像じゃなく、ワシが本当にサンタだと信じてくれるかね?」

女「え?あたし?まーねー。そりゃ最初はね、おじさんがサンタだなんて、ウソじゃない?って一瞬、思ったけど。だって、サンタさんってプレゼントだけ届けて絶対姿は見せない存在で、絵の中の人だってずっと思ってたから。でも、そんな見事なヒゲみたことないし、話聞いてるとホントにサンタみたいだし。」

サ「…そうかい」

女「うん」

サ「…ところでよかったら、お前さんの小さい頃のサンタの思い出を聞かせてはくれまいか?」

女「え?あたしの?……うちはさ、クリスマスとかって初めから一切やらない家庭だったからなぁ。だからクリスマスにプレゼントなんて一度も貰ったことがなくって。お友達がサンタさんにプレゼント貰ったって嬉しそうに話すのを聞いて、子どもの頃はずっとみんなが羨ましかった。どうしてうちだけサンタさんは来ないんだろうって。」

サ「ふむ」

女「それでね、訳を親に聞いてみたら、サンタなんて知らん!って」

サ「うむ!」

女「だからかな、私ね、もしかしたら子どもの時よりも、大人になった今の方が、サンタはいないってわかってるのに、未だに心の何処かで、いて欲しいってずっと信じ続けてるの。信じてるっていうか、信じたいんだと思うんだけど。」

サ「…信じたい?」

女「うん。だって、信じなきゃ何も始まらないでしょ?なんでもそうだけど。…ホント、馬鹿みたいだけどね!いい大人が。今どき子どもだって、サンタを信じなくなってるのに。」

サ「いや、馬鹿じゃないさ。現に今、お前さんの目の前にワシがおるわけだし。」

女「あ!そーだね!まさかプレゼント届けてもらう前に本人に直接会っちゃうなんてね!すっごいよね!あははは!」

サ「ふぉふぉふぉ!」


女「…ふふふ、サンタさんやっと笑ったね」

サ「…お前さんもな」


2人は穏やかに微笑みながら缶コーヒーを飲んで、夜空を見上げた。星が煌めいていた。


女「…実はね、私、さっきまですっごく落ち込んでたの。仕事で大きなミスしちゃって。ホント自分はなにをやってんだろ?サイテーだって、自分を責めて、自分のことさえも信じられなくなるくらい落ち込んでたんだけど、サンタさんと話してたらね、なんか元気でてきた。ありがとね」

サ「いやぁ、お礼をいうのはワシの方じゃ。美味しいコーヒーまでご馳走になってしまって…」

女「ふふふ、サンタさんにプレゼントしちゃった。逆プレゼント。ふふふ」

サ「ふぉふぉふぉ!」

女「さぁてと!私、そろそろ行くね。やっぱりもう一回会社に戻ってもうひと頑張りしてくるわ!」

サ「ほう。そうかい」

女「うん」


そういうと、女はスックと立ち上がり両手を挙げて気持ち良さそうに空に向かってひと伸びした。


女「じゃあね、サンタさん!お互い大変だけど頑張ろうね!良いお年を!」

サ「あ、お前さん、ちょ、ちょっと待ってくれ!」


歩き出した女をサンタは慌てて立ち上がり引き止めた。


女「ん?どうしたの?」

サ「ワシとしたことが、すっかりお前さんの欲しいものを聞くのを忘れておった!お前さんは何か欲しいものはないかい?」

女「欲しいもの?」

サ「そうじゃよ、クリスマスプレゼントじゃよ」

女「あー!そっか、すっかりお願いするの忘れちゃってたわね!サンタさんに会って満足しちゃって!」

サ「まだ間に合う、ぜひともお前さんの欲しいものを教えてくれないか?」

女「…うーん、そうだなぁ。クリスマスは仕事で忙しいし、ぶっちゃけ来られても困るんだよねー。そーだなぁ、、、あ!それじゃあ、お手紙ちょうだい!」

サ「…手紙?」

女「そ、お手紙」

サ「…手紙、で、本当にいいのか?」

女「うん。いつでもいいから。できれば、サンタさんが元気かわかるような直筆のお手紙がいいな」

サ「…ほう」

女「ほらあたし、昔からクリスマス関係ないしでしょ?だから毎日クリスマスってことで。だからね、サンタさんが出せる時にお手紙書いて送って。そしたら私もお手紙送るから」

サ「なるほど。ではそうしよう!」

女「うん。じゃあ楽しみに待ってるね!」

 

こうして、女はサンタに別れを告げ会社に戻って行ったのだった。

サンタもベンチから立ち上がり、気持ち良さそうに空に向かって大きくひと伸びした。


「よし、ワシももうひと頑張りじゃな」

そう呟いて空を見上げると、星々が煌めいていた。

 


時は2016年、師走。

年の瀬が迫る夜の街。街路樹は煌びやかなイルミネーションに彩られ、街ゆく人々は
クリスマスのプレゼントを探し求め、街中が賑わい華やいでいた。


「今年のクリスマスプレゼントどうしようかなぁ~?」

「あらあなた、まだ考えてなかったの?」

「うん。困っててね。子ども達が喜ぶようないいアイデアない?」

「それなら、この本読んでみたら?今すっごく話題になってるんだよ」

「え?なんて本?」

「『現役サンタ直伝!みんなが喜ぶサプライズアイデア』って本。」

 

 


おしまい

 

 

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長い話になってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。


サンタクロースがいるか、いないかって、この時期お決まりで話題に上がる話ですが。

子どもを持つ姉は、サンタさんがいないことをいつまで子どもに黙っていようか伝えるタイミングを考えながらも、ずっと”いるで通したいんだよね”とも言ってます。(笑)でも、そういいつつも「黙ってても子どももホントはわかってるんだけどね」とも言ってました(笑)


それでもあえて、大人も子どももサンタはいるんだと、互いにステキな嘘を”信じる”。私はそれってステキでいいんじゃないかなぁ~なんて思ったりします。


サンタはある種のメタファーみたいなもので、信じてみた時に、はじめて実在し、具現化するものなんだと思う。

だから先ずは「信じること」ありき。
信じなければ、そこにはなにもないのかなとも思います。

と、理想論かもしれませんが、そんなことを思いながら書いてみました。

最期は超現実的なラストになりましたが(笑)

 

それでは!みなさん。どうぞステキなクリスマスをお過ごしください!( ´ ▽ ` )ノ

縁は異なもの味なもの

(この文章は2016年11月に書いたものです。)

 

人との出会いほど面白いものはない。

人とのご縁とは本当に不思議。

縁は異なもの味なものとはいうけれど。

(ここでは男女に限らず、全てのご縁、人脈に関して)

本当にそーだなと思う。

 

老若男女、国籍問わず、

色んな人に色んな場所に出会えば出会うほど、その度に、まだ見ぬ新しい自分を発見する。

 

知らない人、知らない土地であればあるほど、新しい人、新しい場所であればあるほど、知らなかった、新しい自分に出会う。

 

だから、きっと、それが楽しくて、どんどん色んな人、色んな場所に、勇気を出して、出会って繋がっていこうとするんだろーな。

 

 もちろん、今までずっと繋がってきた旧知の仲の人たちも、そう。いつも、自分を再発見させてくれる貴重な存在。

 

私を360度で表現したら、

出会う人は、良くも悪くも、ほんのちょっとでも、わたしの360度のどこかの度数と共鳴してくれているということ。たとえ、一期一会だとしても。一人一人、みんな違う度数を担当してくれて、色んな度数の私を垣間見せてくれているんだろね。

 

角度45度の私とか、

角度90度の私とか、

角度180度の私とか。

もっと細かく、角度81度の私とか。

角度359度の私とか、、(以下、延々と続く)

 

そんな中でも、ある時、360度、全方位色んな角度から、特に自分では気づけない角度の私を誰よりも見せてくれる貴重な存在にでくわすことがあるみたい。

 

無色透明な鏡みたいに、嫌になるくらいどんどん己の姿を照らし出して、私が握りしめていた価値観をドンドンぶち壊すキッカケをくれるから、時々、自分ってこんな人だったっけ?と混乱したり。

 

でも、限界ギリギリ掘り起こして見つけるものは、いつも目から鱗だったりするから、宝探ししてるみたい。

 

恥ずかしながら、 暴露すると、

 

自分は、昔からすごく無常感が強くて、あきっぽく、何事につけ、良くも悪くもあきらめがよすぎて(絵を描くこと以外は)、それ故か、オマケにせっかちで、忍耐力がない人間という自覚があるのだけど、

 

どうやら最近は、いつの間にやら、

けっこうあきらめが悪くなって、(良く言うと粘り強くなって)意外としつこい人間に変貌しつつあるみたい(汗)

 

ここまで書いてて、自分でもなんかいやになるな(笑)

ただのドMでスポ根な人じゃん…(T-T)

 

そして、だんだん遠慮がなくなって、

どんどん我が儘になって、
どんどんプライドもなくなって、
どんどん忍耐強くなって、
どんどん行動力が増す自分を、

ちょっと気に入り始めているらしい…(汗)

 

きっと、私の超繊細なガラスのハートを、容赦無くパリンッパリンッと割りまくる存在のせいで、いつの間にか鍛えられたのかもしれないな。

 

(もう自分で言えちゃうようになった時点で、すでに超繊細でもなく、ガラスのハートでもないのがバレてるな)

 

お陰で、私のハートはだんだん耐久ガラスになろうとしている…(汗)

 

そうだな、折角だから、ステンドグラスみたいな綺麗な模様のハートに完成したらいいんだけどなぁ!

 

そんなわけで、誰よりも我が身を成長させてくれる、そんな有難い存在に出くわした自分はラッキーだなと、最近しみじみ思う。

 

人って出会いで変わるもんですな。

 

本当に、いつ、どこで、どんな人にでくわすのかは、予想外だから面白いのかもしれない。

 

そして、色んな出会いがもたらすものがどう結実するのかも、やっぱり自分の範疇を超えて、”神のみぞ知る”なのだろう。

 

ま、それも流れにまかせて楽しんだモン勝ちだな。

 

これからも、いつ、どこで、どんな人とでくわすことやら。

 

縁は異なもの味なもの。

 

これからも、老若男女、国籍問わず、色んなご縁を楽しみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

球根

(この文章は2017年1月17日に書いたものです。)

 

唐突ですが、私は球根がすきです。

なんか、かわいい。

ぽこっと丸くて。

手のひらにおさまるサイズも。

仲間みたいな、どんぐりとか木の実とか種とかお豆もすき。

つぶつぶ。丸いこたち。

やっぱり、かわいい。

 

あの小さな粒が土の中に植えられると、お水と光がお手伝いして、いつの間にか、にょきにょき成長して、粒から想像もできなかった不思議な形や美しい姿に見事に変身するのだもの。

 

なんとも愉快!

 

種自体はみんな同じような素朴なかたちだったりするのにね。

すごいな〜と思います。

 

あの小さな粒の中にたくさんの憧れやイメージや情報や計画がぎゅっと濃縮してはいっているのかな?

 

粒の見た夢。

 

その夢を、土や水や光の助けを借りて具現化する粒。

 

なんか、ロマン。

 

秋から冬は、たくさんの球根が出回ります。リコリス水仙・ヒヤシンス・アネモネラナンキュラス

 

そして、球根といえばやっぱりチューリップ。

 

チューリップは、寒くなる前に土に植えて、春の開花を待ちます。

 

球根は、春が来るまで、じっくりと、真っ暗な、ふかふかの土の中で、根をにょきにょき伸ばしながら、たくさんの栄養を蓄えて、ひたすらに暖かくなるのを待っています。

そして、時期がきたら、ポンッと青々とした芽を土の中からひょっこり出します。

 

きっと、球根は、芽を出すタイミングを知っているんだろね。

だから、安心して土の中で冬を過ごしてる。

 

そして、芽を出すと、、、

 

(球根の声)

あ、あったかい…

あ、あかるい…

あ、まぶしい…

あ、きもちいい…

 

のびのび

ぐんぐん

ぽんっ!

 

きっと、こんな感じで花を咲かせるんだろうな。ほっこり。

 

球根は、芽を出すこと、茎を伸ばすこと、咲くことをためらったりなどしないのでしょう。きっと、咲くことが花の定めだと、ミッションなのだと知っているからだね。

 

チューリップは、バラになりたいと思っても、チューリップとしてしか咲けないし、バラはチューリップになりたくてもバラとしてしか咲けません。

 

チューリップは春に咲くけれど、

バラは春と秋に咲きます。

 

春に咲く花

夏に咲く花

秋に咲く花

冬に咲く花

毎年咲く花

一年限りの花

数年に一度咲く花

 

色んな花があります。

全部が完璧なタイミングで、全部が違う花を咲かせます。

 

人も同じなんだろね。

 

いつ、

どこで、

どのタイミングで、

どんな花が咲くのか、

私たちは

本当は知ってるはずなのに、

全く気づいてないから

 

だから、

 

いつ、

どこで、

どのタイミングで、

こんな花が咲けばいいのにと、

憧れて夢を見るのかもしれません。

 

バラがいい、

紫陽花がいい、

桜がいい、

百合になりたいと、

 

春に咲きたい、

夏に咲きたい、

一年中咲きたい、

毎年咲きたいと、

憧れたりするのかもしれません。

 

でも、バラじゃなくて、たんぽぽだったりするかもしれないし、紫陽花じゃなくて、向日葵だったりするかもしれません。それは必ずしも、自分が憧れた花の種類ではないかもしれません。それは花開くまで、咲いてみるまでわかりません。

 

バラはバラでも、赤いバラじゃなく白いバラかもしれないし、つるバラじゃなく、ミニバラだったりするかもしれません。

 

好きか嫌いかはあるかもしれないけれど、どんなお花であっても、比べようもなく、どれも個性的で美しいことには変わりはありません。

 

そう考えると、人も、自分と誰かや、誰かと誰かを比べたりすることは、なんの意味も無いことに思えたりします。

 

だって、そもそもがみんな同じじゃないのだから。咲く花も時期も。

 

毎年咲く花もあれば、

一年に一度、たった1日だけ咲く花もあります。何年かに一度しか咲かないお花もあります。そこに優劣はありません。

 

だから、もし、どうしようもなく自分と誰かとを比べてしまって、自信をなくしたり、落ち込んでしまったり、腹を立てたり、羨んだりしたなら、そういう時は、みんなお花だと思えばいいかもしれませんね。

 

そしたら、自信をなくしたり、悲しくなったり、誰かに腹を立てたり、羨んだりすることは、なんの意味もないことなのだと、気持ちが和むかも。

 

土や水や光の助けを借りて、時に任せながら、それぞれのお花をそれぞれのタイミングで咲かせれば良いのでしょう。

 

なんて、一年で1番寒いこの冬、春に思いを馳せつつ、花になぞらえて思ったのでありました。

 

 

 

 

一対一野球の手の抜き方

(この文章は2016年11月に書いた文章です。)

以前、「一対一野球」という、甥っ子が小さい頃によく野球の遊びと称した練習に付き合っていた話を笑いを込めて書いたのですが(一本前の11月30日の記事)、そういえばと、思い出したことがあります。

 

 

それは、”一対一野球の手の抜き方”について。

 

一対一野球はまともに付き合うとクッタクタになります。

 

(詳しくは、1つ前の「一対一野球」を読んでください。)

 

子どもの要求というのは、そのまま優しさのみで受け止め続けていると、どんどん調子こいてエスカレートするばかりなので、時々、調子に乗らせすぎない”工夫”をすることで、上手に手を抜いて付き合い続けておりました。

 

というより、私じゃなく、

義理の兄が(笑)

 

甥っ子の父親です。

(私の姉の旦那さん)

 

いや、工夫というよりも、最早、大人の悪知恵と申しましょうか(笑)”愛ゆえに”と、申しましょうか。。

 

そのへんは流石に実の父親で男。やり方はちっとも大人的ではないし、理不尽だし、徹底的に容赦ないです(爆)

 

基本、甥っ子のバッティングの練習相手として、大人がずっとピッチングをしてあげるのですが、私の場合、”たくさん当てた打てたできた!”という達成感を心から味わって欲しい、そして調子に乗って自信をつけて益々野球が好きになって欲しいと、打ちやすいボールをずっと投げ続けてあげていたわけなんです。なので、要求に応えるかの如く、ずっと全力で付き合う私の方は最終的にクッタクタになるのですが、子どもにしてみれば思い通りになって、きっと達成感と満足感で一杯でしょう。

 

ですが、義理の兄の場合は違います。

 

基本は私とおなじで達成感満足感を味わってもらうなんですが、そこに時々程よい”試練”をちょいちょい挟みます。

 

え?程よい試練!?

 

ちょっと大袈裟な言い回しですが、そうだな、難関、壁、スンナリいかない、なかなかどーにもならない、うまくいかない感っていうんですかね。

 

ゲームでいうところの障害物みたいなものとでもいいましょうか。

 

それはどーいうものかというと、子どもの欲求は底なしなので、大人側は体力的にも全力でずっと練習に付き合い続けると疲れるし、一方的で面白くもないので、時々ワザとピッチングで暴投したり(ボールはその度に甥っ子に取りにいかせる。その間体力回復(笑))いつもより、実力的に打てないような早いボールを投げ続けたりして、甥っ子がナイスバッティングをできないようにワザとしむけるのです。(笑)

 

はい、突然の大人の特権、力の行使!

ええ、ええ、やり方が超大人気ないです!そして、理不尽この上なく容赦ないです!

 

甥っ子にしてみれば、突然ボールを気持ちよく打てなくなり、今までと違い、自分の都合よく合わせてくれなくなったのがわかるので、不愉快極まりないし、思い通りにならないから、ちっとも楽しくありませんよね。

 

そして、子どもは本能的に大人には絶対に力じゃ敵わないのがわかってますから、どーにもならないとみるや、ついには怒り出します。「ずるい!」とか知りうる限りの言葉を並べたてて抗議したりします。そして、立ち向かってなんとしても打とうとしたり。

 

でも、ここが義理の兄のさじ加減のうまさ。様子をみて、面白がって笑い流しながら、何事もなかったかのように、また打ちやすいボールを投げて気分をあげてあげたりするわけです。そして、また調子に乗ってきたら試練を挟むという(笑)この繰り返し。その様子はコントみたいなんですが、結果的に、山あり谷ありのほうが、甥っ子の、男子特有の負けず嫌いを刺激されてやる気になってりして、最終的に満足度が増してたりもしてて。

 

この飴と鞭の使い分け!

このツンデレ感!

 

そうやって、義理の兄は、ワザと時々程よく甥っ子に打たせない時間をつくりつつ、自分の体力回復を測りながらもトコトン子どもの遊びに付き合っていたわけでした。

 

なるほどなーと、今更ながら思います。

 まぁ、もちろん、やり方には賛否両論はあるでしょう(笑)ケースバイケースですが、嘘も方便的というか、ジレンマ加減が素晴らしく(笑)

 

一時のことならば、全力でトコトン付き合うのもいいでしょう。けれど、長く付き合い続けるには、程よい”手抜き”=”遊び”が必要です。一方通行では長くは付き合えません。偏るとどっちかがくたばります。

 

大事なのは、決して、自分の都合のいいように相手をコントロールするためではなく、自分と相手が対等に、お互いが気持ちよく面白く付き合い続けられるようにする工夫。一歩間違えると、相手をコントロールすることになりかねませんから、お互いが楽しむことが前提となります。

 

大抵の女子は、飴と鞭ならば、飴を求めて、そして飴を与えたくなるものですが、義理兄の鞭使いの”優しさ”の真髄をみるにつけ、飴だけではいかんなぁ、程よい飴と鞭のバランスが大事だなぁ〜と思うのでありました。

 

”厳しさ風味の優しさ”、”どーにもならない理不尽さ故の面白さ”というのも、ある意味、愛の形ですからね。

 

 

 

 

 

 

 

一対一野球

 (この文章は2015年3月に書いた文章です。)

 

野球といえば、甥っ子のやまと。

地元の少年野球チームに所属していて、毎週末になると朝早くから練習に試合にと頑張っているらしいです。


なにやら随分上達したようで、なかなか活躍しているらしいのですが、、、

 

「…ふっ、
そりゃそうでしょ。。。」


と、遠い目をしながら思ってしまう私。


…そう遠い目をしながら、、、
( ̄ー ̄)


ええ、ええ、

彼には相当付き合いましたからね、私。

( ̄ー ̄)


彼が小さい頃、どれだけ野球に付き合ったことかっ!

 

それはそれは忘れもしませんよ。

真夏の1対1野球の日々を…
( ̄ー ̄)

 

当時5歳のやまとは野球を覚えたてで、野球で遊ぶ時にはバッティングがメイン。ボールをいかに遠くまで打てるようになるか練習したくて仕方なかったようです。


従いまして、そんなやまとくんに付き合う2人野球は常に、


やまと→バッターのみ

私→ピッチャー
ファースト
セカンド
サード
ショート
ライト
レフト
センター
時々キャッチャー

攻守の交替一切なし!


という、圧倒的に不公平な対戦スタイルでした。


ええ、ま、5歳児相手ですからね。。




…ところが、


やまとくん、パッカンパッカン遠くまで打ちまくりましてね。


!!( ̄◇ ̄;)


5ちゃいだからと舐めておりました


身体が小さいのでストライクゾーンが狭く、更には打ちやすいようにとピッチャーとしては丁寧にゆっくりいい球投げてあげていたわけですよ。。


そしたらですね、


容赦ない5歳児の彼は右に左に真ん中にと
ナイスミート連発しまくるんですね…


あぁ、優しい叔母心が仇となり


私はピッチングするや、即、外野手に早変わりです。


後ろを誰も守ってやくれてませんからね。


真夏の公園をいい大人が必死に白球を追いかけている間に、5ちゃいの彼は架空のベースを一塁二塁三塁とぐるぐる嬉しそうに走ってホームイン。

 

…って、おいっ!!!(ーー;)

 

不利だよ不利っ!
不公平だよ不公平っ!


しかしながら、相手は5歳児。
唯我独尊。
理屈なぞ通じません。


「まぁ、彼のバッティング技術が向上すれば良い」と大人的理由で、「こんなことはなんでもないさ」的な顔をして、圧倒的理不尽を飲み込んで付き合い続けるも、そんな大人なぞに全く遠慮なく続く容赦ないやまとくんのナイスバッティング…


延々と続くランニングホームラン。。
永遠に来ない守備交代。。


あぁ、、いつの間にか、自らがピッチングマシーンを兼務しながら、やまとくんのノックを受けているような図。。高校のソフト部時代の真夏のノックの再現か!


あの5歳児は、天使のように無邪気なお顔をして、なんてサディスティックなんでしょう!


(T ^ T)


こんな1対1野球の相手をよく日が暮れるまで付き合ってあげたのですよ。私。

 

やまとよ、忘れたなんて言わせんっ!

 

忘れてたって、
いつまでもずっと応援し続けてやる!

”死への抵抗”から”死の受容”へ、そして”今を生きる” 私的 ボルタンスキー考 その2

(この文章は2016年11月1日に書いたものです。)

 

春から始まったボルタンスキー作品を巡る、巡礼の旅の締めくくりとして、秋の巡礼の旅の地”豊島”に、再び訪れました。

 

春季と同様、自転車にて、風を感じながらの自然豊かな島巡りを満喫しました。

 

秋の豊島は、春を彩っていた景色とはまったく違う美しさで、再び私を迎え入れてくれました。

 

ちょうど稲の収穫時期なのか、首を垂れた稲穂がたわわに実り、段々畑は一面、黄金色に彩られ、海と空の青色とのコントラストがとても美しく、島内のいたる所に、ピンク色の秋桜、黄色いセイタカアワダチソウ、銀色のススキが咲き乱れ、木々はオレンジ色のみかんや柿がたくさん実をつけていました。

四季の移ろうその光景は、まさしく島の名前そのままに豊かなものでした。

 

早速、ボルタンスキーの新作の「ささやきの森」へ。

 

自転車を駐輪場に停めて、山道を20分程歩いて登っていった、緑深い森の中に作品がありました。辿り着く前に、すでに、チリンチリンと風鈴の音が森の中のどこからか聞こえてきて、誘われるように辿り着きました。

 

薄暗い森の中に、無数の風鈴が、透明の短冊をつけて、風に揺れて、チリンチリンと心地よい音色を奏で、時折、木漏れ日が透明の短冊を照らし、揺れる度に光が反射する様子がとても心地よく、木の長椅子に腰掛けて眺めたり、風鈴の森の中を歩いたりしながら、長い時間をすごしました。

 

ボルタンスキーが新作について語っていたように、とても心が穏やかになるような空間でした。

 

この作品には、希望すれば、大切な人の名前を(亡くなった方、生きている方どちらでも)風鈴の短冊に残すことができ、この作品も「心臓音のアーカイブ」同様に、鑑賞者が参加し続けるかぎり未完成の、終わりのない作品のようです。

 

この作品には、「死」や「消滅」という言葉につきまとう不穏さや、喪失感、寂しさはあまり感じず、どちらかというと、残り香のように漂いながら、暖かく何かが包み込んでいるような、柔らかい優しい空気を感じました。不思議です。

 

鳥や虫の鳴き声、循環する森の緑、空間すべてが生き物の息吹に満ちているからかもしれませんが、ここでは、見えるもの見えないものが、ただ、一緒に”在る”ことの心地よさしか感じられませんでした。ボルタンスキーが「愛の森」と言ったのも、なんとなくわかる気がします。

 

そして、その後に、海辺にあるボルタンスキー作品の「心臓音のアーカイブ」へ。春、アーカイブした、自分の心臓の音を再び聞いて来ました。

 

春の私の心臓の音は、とても一生懸命に、力強く脈打っていました。

 

2度目でも、やっぱり感動しました。

自分の心臓の音に、鼓動の力強さに感動していました。

生きているということは、こんなにも力強いことなんだという、ただ、当たり前のことに、また感動していました。

 

だけれど、「”春の私”はもう存在していないんだなぁ」と思いながら、まるで他人の鼓動を聴くように”過去”の自分の心臓の音を聞きながら感動している自分もいました。

 

かつて”居た”自分と”失われた”自分の両方を感じていました。

 

この、心臓の音の主が、生きていても(身体があっても)、死んでいても(身体がなくても)、心臓の音を聞いて感じる想いは、もしかしたら、同じなんじゃないだろうか?とも思いました。

 

春、存在した私と、今、存在する私は同じだけど違うし、今の瞬間の私は次の瞬間にはあっという間に消えてなくなります。でも、確かに”存在”していました。例え、今、心臓の音をアーカイブしたとしても、もうアーカイブしたその瞬間の私は”今”存在しないのです。

 

結局、どんなに、生きている瞬間を物理的にとどめておこうとしてもイタチごっこで、物理的な”死”からは決して逃れられないし、物理的に時を止めることもできないのだなと思いました。そして、今の瞬間にしか、身体を持った私たちは存在することができないのだなと。

 

物理的に生きていることをとどめておく行為そのものが、まるで”死への抵抗”のように感じられたのかもしれません。

 

結局、死は誰にもとめられないし、みんな、生まれた瞬間からすでにゆっくりと死に向かっているのです。毎秒、死んで生まれているのです。

 

そして、死は、いつも、誰にとっても予測不可能で、突然なのです。

 

死因が、病気であれ、事故であれ災害であれ、たとえ余命宣告があり、心づもりがあったとしても、やはりそれは、いつも、誰にとっても、等しく、突然、訪れるものです。

 

自ら命を絶たない限り、「何時何分に死ぬ」と、予定が決まっているわけではないし、誰も命の期限をコントロールなどできないのです。

 

例えば、自分にとって大切な人の死に際、呼吸がだんだんと浅くなり、やがて心臓の鼓動が止まり、身体からはぬくもりが消えて冷たくなり、どんなに声をかけても目を覚まさず、動かず、話もできなくなって、「あぁ、もうこの身体には”命”がいなくなってしまったのだ、魂は飛び立ってしまったのだ」と”個体の死”を否応無く実感しなければいけない瞬間が訪れます。

 

亡骸は荼毘にふされ、骨になり、身体もこの世からなくなり、戸籍は除籍となり、死亡と記載され、その人の社会的なつながりともいえる証明が次々と消えていきます。

 

けれど、生きている人の日常は、変わることなく等しく流れ続けます。

 

そして、時折、受取手の居なくなった便りが不意打ちのように届いたり、その人が死んだという事実を思い出す出来事が起きる度に、”不在”を思い知らされたり、まだ”存在”を未練がましく願ったりするのです。そしてまた、そんな気持ちとは関係なく、変わらない日常がただ淡々と等しく流れ続けるのです。けれど、波が寄せては返すように何度もそれを繰り返しているうちに、不思議なことに、時とともに、だんだんとその波が穏やかになっていくのです。

 

そうしながら、自然と「死への抵抗」をあきらめ「死の受容」へと変容していっている自分を、ある日、見つけるのです。

 

そして、やがて気づくのです。

初めからすべてが「存在」しているだけなのだと。

 

生まれて以降、「時」は「死」へと向かい淡々と等しく流れ続けていくけれど、大切な人の「死」の悲しみや寂しさやショックを癒し、救うのもまた、淡々と等しく流れ続けていく「時」だけなのでしょうか。

 

不思議なものです。

 

きっと、「ささやきの森」には、そんな、時間の流れに似たものを感じたのかもしれません。もしくは、自分がそのような心境であったからこそ、そう感じたのかもしれません。死と再生を同時に繰り返しながら、移ろいゆく豊かな自然は、死も生も時間もただ、同時に、そこにあるだけでした。

 

 そして、東京都庭園美術館の個展の際に、ボルタンスキー自身がインタビュー映像でとても印象的なことを語っていたことを思い出していました。

 

私たちの身体は、鼻は祖父、目は祖母、口は父、耳は母、といったように、もう今では名前さえも忘れ去られた、かつて存在していた先祖の遠い記憶の寄せ集めでできていて、遥か彼方、気の遠くなるほど長い年月の記憶の集大成として存在しているというような内容だったのですが、それは、私たち自身が、かつて存在し、消滅したあらゆるものの記憶そのものでもあり、同時に今、存在しているあらゆるものでもあるということなのだろうなと思いました。

 

そして、それはすごいことだなと思いました。気が遠くなるほどのすごい道のりの果てに、今、私という、あなたという形が現れたのだから。それは、本当は奇跡みたいなことなのかもしれません。

 

そう考えた時に、心からの感謝にあふれて、私の中にすべてがあるのだから、遠慮なく、今を精一杯生きていきたいと素直に思えたのでした。

 

 

「大事なのは、鑑賞者自身が作品の中で役を演じ、鑑賞者自身が作品の一部になること」と、ボルタンスキーが語っていましたが、知らず知らずのうちに、私もまんまとボルタンスキー作品の一部として作品の中に迷い込み、自分の物語を作り上げていたようです。

そして、ボルタンスキー作品巡礼の旅は、一先ず、今回で一区切りできそうです。

 

そんなわけで、瀬戸内国際芸術祭も、残すところ後一週間で終わりを告げますが、私にとっては、ほんとうに素晴らしい旅となりました。こんなにもゆっくり一人旅をしたのは何年ぶりだろう?

 

また3年後、今回島で出会ってお世話になった方々に会いに行けるといいな。

 

最後に。

今回の豊島巡りでの誤算は、電動自転車が借りられなかったことだったのですが、ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」を見終えた帰り道、アップダウンの激しい心臓破りの山道を必死に自力で自転車で登っている最中、ふと、今の破裂しそうなくらいにバクバクいってる心臓音こそをアーカイブできたら面白いのにな、でも、絶対にこの音はアーカイブできないんだろねと、ニヤケながら馬鹿なことを考えていた私は、その瞬間、すでに、”巡礼”が終えてしまったことを自覚したのでありました。

 

 

 

 

 

おわり