(この文章は2016年11月に書いた文章です。)
以前、「一対一野球」という、甥っ子が小さい頃によく野球の遊びと称した練習に付き合っていた話を笑いを込めて書いたのですが(一本前の11月30日の記事)、そういえばと、思い出したことがあります。
それは、”一対一野球の手の抜き方”について。
一対一野球はまともに付き合うとクッタクタになります。
(詳しくは、1つ前の「一対一野球」を読んでください。)
子どもの要求というのは、そのまま優しさのみで受け止め続けていると、どんどん調子こいてエスカレートするばかりなので、時々、調子に乗らせすぎない”工夫”をすることで、上手に手を抜いて付き合い続けておりました。
というより、私じゃなく、
義理の兄が(笑)
甥っ子の父親です。
(私の姉の旦那さん)
いや、工夫というよりも、最早、大人の悪知恵と申しましょうか(笑)”愛ゆえに”と、申しましょうか。。
そのへんは流石に実の父親で男。やり方はちっとも大人的ではないし、理不尽だし、徹底的に容赦ないです(爆)
基本、甥っ子のバッティングの練習相手として、大人がずっとピッチングをしてあげるのですが、私の場合、”たくさん当てた打てたできた!”という達成感を心から味わって欲しい、そして調子に乗って自信をつけて益々野球が好きになって欲しいと、打ちやすいボールをずっと投げ続けてあげていたわけなんです。なので、要求に応えるかの如く、ずっと全力で付き合う私の方は最終的にクッタクタになるのですが、子どもにしてみれば思い通りになって、きっと達成感と満足感で一杯でしょう。
ですが、義理の兄の場合は違います。
基本は私とおなじで達成感満足感を味わってもらうなんですが、そこに時々程よい”試練”をちょいちょい挟みます。
え?程よい試練!?
ちょっと大袈裟な言い回しですが、そうだな、難関、壁、スンナリいかない、なかなかどーにもならない、うまくいかない感っていうんですかね。
ゲームでいうところの障害物みたいなものとでもいいましょうか。
それはどーいうものかというと、子どもの欲求は底なしなので、大人側は体力的にも全力でずっと練習に付き合い続けると疲れるし、一方的で面白くもないので、時々ワザとピッチングで暴投したり(ボールはその度に甥っ子に取りにいかせる。その間体力回復(笑))いつもより、実力的に打てないような早いボールを投げ続けたりして、甥っ子がナイスバッティングをできないようにワザとしむけるのです。(笑)
はい、突然の大人の特権、力の行使!
ええ、ええ、やり方が超大人気ないです!そして、理不尽この上なく容赦ないです!
甥っ子にしてみれば、突然ボールを気持ちよく打てなくなり、今までと違い、自分の都合よく合わせてくれなくなったのがわかるので、不愉快極まりないし、思い通りにならないから、ちっとも楽しくありませんよね。
そして、子どもは本能的に大人には絶対に力じゃ敵わないのがわかってますから、どーにもならないとみるや、ついには怒り出します。「ずるい!」とか知りうる限りの言葉を並べたてて抗議したりします。そして、立ち向かってなんとしても打とうとしたり。
でも、ここが義理の兄のさじ加減のうまさ。様子をみて、面白がって笑い流しながら、何事もなかったかのように、また打ちやすいボールを投げて気分をあげてあげたりするわけです。そして、また調子に乗ってきたら試練を挟むという(笑)この繰り返し。その様子はコントみたいなんですが、結果的に、山あり谷ありのほうが、甥っ子の、男子特有の負けず嫌いを刺激されてやる気になってりして、最終的に満足度が増してたりもしてて。
この飴と鞭の使い分け!
このツンデレ感!
そうやって、義理の兄は、ワザと時々程よく甥っ子に打たせない時間をつくりつつ、自分の体力回復を測りながらもトコトン子どもの遊びに付き合っていたわけでした。
なるほどなーと、今更ながら思います。
まぁ、もちろん、やり方には賛否両論はあるでしょう(笑)ケースバイケースですが、嘘も方便的というか、ジレンマ加減が素晴らしく(笑)
一時のことならば、全力でトコトン付き合うのもいいでしょう。けれど、長く付き合い続けるには、程よい”手抜き”=”遊び”が必要です。一方通行では長くは付き合えません。偏るとどっちかがくたばります。
大事なのは、決して、自分の都合のいいように相手をコントロールするためではなく、自分と相手が対等に、お互いが気持ちよく面白く付き合い続けられるようにする工夫。一歩間違えると、相手をコントロールすることになりかねませんから、お互いが楽しむことが前提となります。
大抵の女子は、飴と鞭ならば、飴を求めて、そして飴を与えたくなるものですが、義理兄の鞭使いの”優しさ”の真髄をみるにつけ、飴だけではいかんなぁ、程よい飴と鞭のバランスが大事だなぁ〜と思うのでありました。
”厳しさ風味の優しさ”、”どーにもならない理不尽さ故の面白さ”というのも、ある意味、愛の形ですからね。