「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

海と溶け合う太陽

私の中には2人の自分がいる。


愚かしいほどに、
感情に溺れる自分



恐ろしいほどに、
無情に観る自分

 

優劣もなくどちらも同じ自分。

 

感情の海に溺れて苦しくなれば、そんな自分を高く空を飛ぶ鳥になってただ見つめる。


鳥になると楽だ。

視界がパッと開けて感情の霧が晴れていってしまうから。


でも、そのうち何処までも果てしなく広がっていく空に、たった1人きりだと気づいて、怖くなって、ハッとして、慌てて自分の境界線を覆う毛布を脱ぎ捨てて、そしてまた、性懲りもなく感情の海に潜りたくなってくるんだ。

 

感情の海は心地がいい。自分と誰かの境界線が溶けあって、混じり合って、なくなって、自分という形が溶けて消えて霧散していく時1人きりじゃないと安心する。

 

 

海でも空でも、果てしなさは心地が良いけど、続きすぎると段々とストップモーションの世界のように益々自分の身体に自分が閉じ込められている感覚に戻るのは何故なんだろ?


どうして感情ってあるのかな?


もし、人間に感情がなくなったらきっとラクだろうね。起こる出来事にただ淡々と出会って行くだけだからきっと機械みたいになっていくんだろな。

だから、大波も小波もないまま凪のまま終えていく世界。心の波が立たない世界はきっと、まるで最初から時間が止まってて、永遠に閉じ込められてる世界。


そしたら、きっと、誰かと一緒に生きる意味もなくなってゆくだろね。何にも感じないから。


そんなの、やっぱりつまらないな。


だから、生きるには物語が必要なんだろね。感度という道標を頼りに、感情って海に溺れずに感情って波を乗りこなす物語。

 

空を飛ぶ自分と、海の上を波乗りする自分を結ぶ地上の物語。


ここまで書いて、昔みたゴダールの映画「気狂いピエロ」のラストシーンを思い出した。

 

10代にみたせいか、映画の内容は朧げに忘れてしまったけど、ラストシーンのランボーの詩「永遠」と一面に広がる空と海の境界線だけは強烈に覚えている。

それだけで私には十分だった。

 

 

『永遠』

「またみつかった」
「なにが?」
「永遠が。海と溶け合う太陽が」

 

 

 

 

 

せつない星・優しい星

生きることはせつないことだなと思う。


今、この瞬間に見た景色の美しさが、


永遠に続くように思えても、


砂がさらさらと崩れてこぼれ落ちていくように、

一瞬の出来事として瞬く間に消えていく。


握りしめた雪が、


掌の中で溶けて無くなるように。


本当はわかっているのだ。


この瞬間は二度とこないし、


どんなに愛着があっても


永遠に続くことなどないのだと。


そしていつの日か、


記憶の彼方に消えていってしまうということも。


だからこそその瞬間が、


いつでも宝石みたいにキラキラしているのだ。


今という瞬間を、


いつも大切に味わって抱きしめながら生きていけたなら、


きっと、それだけで十分なんだと思う。

 

一期一会のせつない星。

 

優しい、しあわせな星。

 

ゆめまぼろし。

和歌のような音律の歌

 


昨日は綺麗な満月を眺めるコトができました。

少し湿り気を帯びた柔らかな優しい光をたたえたしっとりとした月明かりに感じられました。


お月様といえば、『竹取物語


TVでも放映されてましたが、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を思い浮かべます。


スケッチやクロッキーのような手描きの線のタッチと、水墨画を思わせるような余白を活かした淡い背景。徹底的に手描き感にこだわった素朴な絵で構成された表現方法が、この物語の世界観にピッタリ。


高畑監督はあえて、物語を見る側それぞれの想像力に委ねるために、リアルに描き込み過ぎずに、手描きの線の世界観に拘られたようです。


そして、「木を植えた男」などの作品で有名なカナダのアニメーション作家のフレデリック・バックさん(2013年12月24日没)にとても影響を受けていらっしゃるそう。


フレデリック・バックさんのような手描き感の作品を作りたかったと。


そして、完成した『かぐや姫の物語』を病床のフレデリックさんに見ていただきたいと自宅を1人訪ねられ、一緒に最後までソワァーにくつろぎ手を握りしめながら作品を見られて、数日後にフレデリックさんが亡くなられたという。


以前にTV番組の中で知りました。


誰かへの尊敬と憧れが原動力になり、そうして全身全霊で作り上げた作品が更に誰かの胸に憧れと尊敬の波を起こし新しい原動力となり続ける。


肉体の死を迎えたとしても、精神は誰かに引き継がれて延々と形を変えて生き続けるのだなぁと、このお二人の素敵な交流をみながら、しみじみと感動したのを覚えています。


いいですね。


さて、『かぐや姫の物語』。


私が印象深く感じたのは、劇中で多用された「わらべ歌」と「天女の歌」。


♪~ 鳥・虫・けもの・草・木・花

春夏秋冬連れてこい
春夏秋冬連れてこい

(一部引用しました)


高畑監督が作詞作曲されているそう。


子どもたちが口ずさむ歌詞とメロディーが暖かく牧歌的なかんじで素朴な響きをともなって耳に残ります。ステキな歌ですよね。


でも、印象深いのはやはり「天女のうた」


かぐや姫がふと、憶い出すように口ずさむあの音律が、同じメロディーラインと詩を元にしている「わらべ歌」とは明らかに響き方が違います。


私は音楽に詳しくはありませんが、日本的なあの独特の音律。


ちなみに私は、お三味線で長唄とかにも憧れます。都々逸とか。好きです。雅楽の響きとかも大好きだし、義太夫節なんかも好きです。


遡れば、あの日本的な音律は和歌の披講にいきつくのかしら?


なんとも言えないくらい、胸の奥がギュッとなって、あの歌だけで泣けるんですもの。なぜか。


不思議ですよね。


簡潔な言葉と音の深み。


和歌のようなあの歌には、喜怒哀楽が凝縮されてつまってて、ちょっとした拍子にこちらの感情を溢れださせてしまう不思議な作用を感じました。

 


「天女の歌」


まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ

めぐって 心を 呼びかえせ

めぐって 心を 呼びかえせ

鳥 虫 けもの 草 木 花

人の情けを はぐくみて

まつとしきかば 今かへりこむ

 

あたしの平成最後から二番目の誕生日

「お母さんがわたしを産んだから今日は美味しいものを一緒に食べられるんだね〜」

 

「わたしが生まれたから今日は美味しいものを一緒に食べられるんだね〜」

 

 

と、

のほほんと言いながら、今晩は親子水入らずでちょっと上等なお寿司を食べた。

 

そうだよね。

産んでくれる存在がなかったら

生まれることもないし、

生まれる存在がなかったら

産むこともできない。

 

その前に、

お父さんとお母さんが一緒にならなかったら私がお母さんのお腹に宿ることもないし、

そもそもお父さんとお母さんが出会わなければ一緒になることもない。

そして、お父さんとお母さんが生まれなければ出会うこともない。

 

だから、お誕生日はみんなとわたしにありがとうの日なのだな。

 

気づいたら、

誰かにしあわせにしてもらおうと思わなくても、いつも必ず誰かや何かが勝手にわたしをしあわせにしてくれていて、誰かをしあわせにしようと頑張らなくても、誰かや何かが勝手にいつもわたしからしあわせを感じてくれている。

 

知らぬ間にみんなでしあわせを分かち合ってる。

 

しあわせになろうと思わなくても

すでにしあわせがそこら中に溢れてる。

 

だから、わたしはただ自分らしく安心して存在していればよいのだ。世界にぽふっと飛び込めばそれだけでいいのだ。世界はおもっているよりも、圧倒的に優しいのだ。

 

私の思うしあわせは喜怒哀楽全部を豊かに感じられること。

 

嬉しい楽しいだけじゃなく、悲しい寂しいって感じられることさえしあわせの形の一つ。

 

だから、しあわせってものすごく

豊かで広くってごく当たり前のことだったりするから、ぼーとしてるとうっかりわすれちゃう。そしてそれはいつも何一つ同じ形などない。そう思うと、わたしの感じてる毎瞬は偶然だらけの奇跡のパラパラマンガなのかもと、ふとそんなことを思った誕生日。

 

父があの世にさっさと逝っちゃってから約4年。

運動会の障害物競争みたいにめくるめくだった約4年。

そんな中、父だけじゃなく平成までもがお先に失礼と言ってきた!

奇遇にも、来年平成が終わるのとほぼ同じくして実家仕舞いを完了することを決めている。なので、今年は今までの家族としての形の解体と再構築への仕上げの年となる。

あと一年で平成と実家に幕!

 

♪こんな〜時代も〜あぁ〜ったねとぉ〜、

いつか〜笑える日がぁ〜くるわぁ〜

 

♪まぁ〜わる〜ま〜わる〜、時代はまわる〜、よろぉ〜こび〜、かなしみくりかえぇ〜ええし〜

 

もうすでにこの曲が頭の中をぐるぐる回っている。。

そして、年末には蛍の光がぐるぐるまわるのだろうよ。。

 

愛着のある場所を手放すのはきっと寂しいだろなぁ〜。

 

でも、まだ知らぬ新しい場所に行くこともワクワク(まだどこに行くかも決めてないけど!)

 

平成の次が何になるのかくらい、未知!

 

やっぱり、人は冒険したくなる生き物!

 

喪失と孤独のトンネルを抜けた先には進むべき光があるさ〜!笑

 

その先になにが待ってるのかはまだよくわかんないけど、まぁわかっちゃったらつまらないからそれもよし。

 

とりあえず、荷物は少なめに軽めにしといた方がいい。ブツブツ。。

そして準備は怠らず。ブツブツ。。

 

来年の今頃、わたしが何処でなにをしていたとしても、自分がマイホームなのだから大丈夫!と胸を張って堂々と言える自分になっていたいから、やり残しのないよう悔いなく今日も感謝してコツコツ励もうと思った、平成最後から二番目のお誕生日であった。

 

 

(怠け者の上に忘れっぽいので、お誓いを書いとくこととした誕生日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春支度とハレとケ②

*2015年3月に書いた文章です。

 

 

「ハレとケ」といったらセットのように「ケガレ」という言葉が登場します。


文字通り「ケ(=日常)ガレ(=枯れ)」
=穢れ=汚れという意味のことです。


「ハレ(=非日常)」とも違う、日常が枯れてしまうっていうのは一体どんな状況でしょうかね。


きっと、心身の病気や怪我、生活の困窮、身内や知人との離別、突然の災害、失業・失恋・挫折、その他諸々の思いがけないネガティヴな出来事が「ケガレ」にあたるものなのかなと思います。


そして、「ケガレ」たら、「ミソギ・ハライ」または「コモリ」をするわけです。


では「ミソギ・ハライ」「コモリ」とはどんなことでしょうかね?


例えば、不祥事を起こした不良学生が、その程度に応じて受ける処分として退学(ミソギ・ハライ)だったり、停学(コモリ)なんかを受けて、しばし謹慎・反省するってなかんじでしょうか。


そしてミソギ・ハライ・コモリの何れかを経て、再び「ハレの日」を迎えます。


不良学生の例えでいえば、ミソギコモリとして身を切るような処分の反省内省期間後に、再び新しい学校に入学し直したり、就職の道を選んだり、復学したりする日を新たに迎えるという感じです。


病気の人を例にしてもわかりやすいですね。


社会生活(ケ)→病気(ケガレ)→休職・入院・手術(ミソギ)→退院療養・リハビリ(コモリ)→復職の日(ハレ)→社会生活(ケ)


と、こんなかんじでしょうか。


そんなわけで、


ハレ(非日常の特別な日)→ケ(日常)→ケガレ(日常が変わるようなネガティヴな出来事)→ミソギ・コモリ(反省や静養・休養・勉強期間)→ハレ(非日常の特別な日)→ケ(日常)

という一連の流れで、一つのサイクルとして完結します。


この流れは日本の一年間の四季のサイクルによく似てますよね。


春に芽吹き、夏には繁り、秋には実り、豊かな収穫を迎え、そして立ち枯れた冬は、ただひたすらに地中にて春の訪れを静かに待つ。そして時はめぐり再び春がやってくるといったように。


ハレ→ケ→ケガレ→ミソギ・コモリ→ハレ→ケ→ケガレ→ミソギ・コモリ→ハレ→ケ………


と、「ハレ、ケ、ケガレ、ミソギ・コモリ」の4つの言葉の一サイクルを春夏秋冬になぞらえて、輪のようにぐるぐると延々と繰り返し循環させていこうとする人生観・死生観を、DNAレベルで無意識のうちに私たち日本人の誰しもが持っているのではないかなぁと思います。


季節は誰にでもかならず同じようにめぐってきます。例外はありません。


春になればかならず桜は咲きます。
秋になれば葉は紅葉します。


終わらない冬などなければ、永遠の夏などもないのですね。。


日本の四季ってホントに素敵。


なんだか人生の「失敗→反省&勉強→再挑戦」というサイクルにもよく似てますよね~。


しみじみ。。( ´ ー ` )


年度替わりの春はプチリニューアルにももってこいかもしれませんね。


特にこれといった生活の変化や大きな節目がないならば、あえて季節の変わり目を利用して、意図的に自分で節目的なことを設定してみるのも心機一転で楽しいかもしれませんね。


髪型をちょっと変えてみたり、カバンや靴を新調してみたり、お部屋の模様替えをしてみたり。。新しく何かを始めてみたり。


生まれ変わるには「ミソギ=身削ぎ」ありきですからね。始める前に、春支度として、少しプチ整理整頓、大掃除を今週はしようかな~となんとなく思う、春分前のそんな週末です。

 

春支度とハレとケ①

*2015年3月に書いた文章です。

 

 

こんにちは( ´ ▽ ` )ノ
だいぶ春めいてきました♪


日に日に暖かい日が多くなってきましたね。


冬の間に着重ねた服も、一枚二枚とたけのこの皮を剥くように少しずつ薄着になりつつあります。


昨日、姉の娘で私の姪っ子ちゃんの卒園式でした。

ついこの間まで小さな赤ちゃんだったのに!

首がすわり、寝返りをうち、ハイハイをし、つかまり立ちし、歩き、言葉を発し、話しができるようになり、自我がでてきて色々自分でできるようになり、だんだん親離れし、、、

子供の成長はあっという間ですね。。
竹がぐんぐん伸びるように勢いに満ちています。みていて頼もしいものです。


姪っ子ちゃんにとってこの春は、成長過程の中の一つの大きな節目として卒園・入学といった「ハレの日」を迎えるわけです。
4月からは”晴れて”ピカピカの一年生です。


「ハレの日」といえば、民俗学者柳田國男さんが見出した時間論を伴う日本人の伝統的な世界観に「ハレとケ」というものがあります。


「ハレ(晴れ)」とは儀礼や祭、年中行事などの”非日常”を、「ケ」とは普段の生活である”日常”のことをいうそうです。


卒業入学や冠婚葬祭なんかはまさに人生で何度も訪れることのない「ハレ」の日ですね。「晴れ舞台」「晴れ着」なんて言ったりしますし。ワンポイントで起こる”非日常”な儀式としての出来事ですね。


そして、入学式という「ハレの日」の翌日から、姪っ子ちゃんは大きなランドセルを背負って学校に登下校する「ケ」としてのごく普通の日常を毎日おくり始めるわけです。。

でもその「ケ」としての日常は、今までの幼稚園生活とは違う、全く新しい日常として。


あんな小さな身体にそぐわない大きなランドセルを背負って、毎日ちゃんと学校に通えるのかしら?と、いらぬ心配をする叔母バカな私です。。(。-_-。)ぽ


新しい未知なコトには不安や心配がつきものですからね。。


でもきっと、好奇心旺盛な子どものこと。新しいことをどんどんスポンジのように吸収して成長していくことでしょう(^ ^)
「かわいい子には旅をさせろ」ですね。。


きっと今年も年度替りの春の訪れと共に、多くの人達がそれぞれに卒業・入学・就職・退職・人事異動・転勤、それに伴う引っ越しなどなどの色んな大きな節目としての「ハレの日」を経て、新しい「ケ」としての日常を迎えるのでしょうかね。


蛇が脱皮し古い皮を捨てるように、
冬の寒さをしのぐために纏った古い衣を脱ぎ捨てて。

古い衣を脱ぎ捨てる時はちょっぴり淋しいものです。。

新しい衣は馴染むまでちょっと時間がかかるかもしれませんが、新しいってそれだけで嬉しくなりますものね。


はてさて、みなさんは今春どんな新しい衣装を纏いますか?

 

夢と現実

(*2016年2月に書いた文章です)

昨日、Twitterにて気になるつぶやきを見つけた。私は善し悪しの判断抜きに自分の心にひっかかった、自分の感度が『ピン!』とか『もやっ』とするツイートはメモ代わりにリツイート若しくはふぁぼる傾向にあり、今回もそうして、とりあえずぼんやり頭の片隅にそのつぶやきを遊ばせつつも、家事を片付け、風呂に入り、何時もと変わらないルーチンの末、眠りについた。

そして、今日なんとなくTwitterチェックをしていると、昨日気になったつぶやきに直接関連性があるかわからないけれど、私にとっては関連性を感じる別の人のつぶやきをたまたまみつけた。

両ツイートに共通するキーワードは、『夢・幻想』と『現実』。

一方は『現実』をふまえつつも『夢・幻想』を肯定し、もう一方はどちらかというと『夢・幻想』に否定的で、超『現実』重視。

なるほど、面白いなーと思った。

『夢・幻想』と『現実』。

 

『こーしたい、あーなりたい』と想像をふくらませ『夢』をみることが、その『夢』を『現実』にする種になる。一方で、その想像するきっかけは『現実』を生きるなかで生まれる。

『鶏が先か卵が先か』ではないけれど、其れに似た禅問答みたいな話に思える。

『咲くから枯れる』のか『枯れたから種ができ咲く』のか。

『食べたから排泄する』のか『排泄したからお腹が空き食べる』のか。

『生まれるから死ぬ』のか『死ぬから生まれ変わる』のか。

うーむ。。やはり禅問答(笑)

ウロボロスの蛇じゃないけど、ただ一つに内包されている真逆が”同時に在る”だけで、切り分けるか切り分けないかなだけなのかもしれない。切り分けた時、切り口の一方が『夢』で、もう一方が『現実』という名を名乗りだす、ただそんな感じかもしれない。

『夢』と『現実』を考えるときいつも思い出すのが漫画『BANANAFISH』文庫本第2巻のあとがきに掲載されていた俳優の渡辺えりさんのエッセイの一文。好きなので最後に引用して〆としましょう。


「精神世界に泳ぎながらも、どうしようもない現実の力に押しつぶされ、あがき、はいつくばり、芝居を造り続けていた。夢見る力を得るためには、夢見の作業が現実逃避となってはならないと考え始めた頃だった。

現実から逃れるためではなく、きびしい現実を認識し自立するための夢想でなくては、生きて創造を続ける意味はないと考えていた。」


はてさて、今日も現実を生きて、想像=創造いたすとしましょう!