「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

補色というギャップのマジック

(*2015年2月に書いた文章です)

 

昨日、荻窪の6次元さんの『点描ナイト』に行ってきました~。

今、東京都美術館にて開催中の『新・印象派』展について学芸員の大橋さんと6次元のナカムラさんが語り尽くす、トークイベントだったのですが、ホント楽しかった!

予備知識があってからの方が楽しめるかなと事前に展覧会に足を運んでから、『点描ナイト』に行ったのですが、学芸員さんのお話を聞いたら、改めてポイントおさえてまた行きたくなりましたね。

印象派の点描技法は色彩理論に基づいて光を分割して描いているそうです。
テレビ画面のあの色の構成ですよね。昔、美術の授業で習った光の三原色の。

この時代に感情とか感性だけじゃない科学的な視点・理論が入っているところがどこかニュートラルなかんじがして私はかなり好きです。ニュートラルというかハイブリッドな感じ?

故に見る人によって、感じ方・印象がすごく極端に分かれるのかもしれません。

『点描ナイト』参加者さん達の点描に対しての感じ方がまたおもしろかったです。

点描の均一な構成が、少し無機質な感じで壊れてしまいそうに儚く感じる方がいる一方で、画面を埋め尽くす膨大な数の点々と完成させるまでにかかった時間などの圧倒的な”密度”を考えると圧迫感というか息苦しくなるというか、突然ずしっと重く、密度に襲われるように感じられる方も。

”軽さと重さ”

おもしろいですよね。

例えば、新印象派の点描技法では赤と緑(補色同士)だけで点々の色面を描けば離れてみてみると黄色に見えたりするような、補色同士を上手く取り入れて画面を構成して描かれているのですが、
”補色”で構成っていう真逆の二色間のギャップが調和してるからニュートラルなものになって、その時々で受ける印象の幅を生み出してるのかしら?と思ってみたり。人によってあかよりなイメージになったり、緑よりなイメージになったり、どっちでもない新しいイメージになったり。と勝手に分析。

目の錯覚みたいな、脳みそが騙されてるみたいな不思議なマジックですよね。
もしかしたら自分達はいつもこんなマジックの中にいきてるのかもしれませんけれど。自分もギャップを感じるほどになんでも楽しいし。。

なので、学芸員さんがおっしゃってたように、離れて作品を遠くからみたり、たまに近づいて見たりのバランスが鑑賞のポイントかもしれませんね。

近づきすぎると細部のそれぞれの色に囚われて、圧倒的な情報量に息苦しくなって途中で鑑賞がやになっちゃうかもな(笑)

個人的にかなり面白かったのは新印象派の流れからの締めくくりにみた、イームズの映像「パワーズ・オブ・点」でした!結局、私達も世界も宇宙も全て点々なんだよねっていう。

ホントに楽しかった!
また『新印象派』展、違った見方をしてきたいですし、オススメです!

早速、今制作中の砂絵にこの色彩理論活用してみたいと思います♪

簡単単純

本当は何だって、簡単単純なのに、

複雑にしたいだけなんだ。

複雑にして、誤魔化して、難しくして、大変なフリをしたいだけなんだ。

いつまで経っても天邪鬼。

逆立ち中。

 

本当は出口が見つかったのなら、迷路からポンって飛び出ちゃえばいいのに、

ずっと迷っていたいだけなんだ。

迷って、探して、悩んで、わからないフリをしたいだけなんだ。

いつまで経っても、迷い子。

捜索願い中。

 

本当は初めからわかってるのに、複雑にして迷うフリして言い訳してるんだ。

 

お腹が空いたら食べればいいし、

お腹が減らなければ食べなきゃいいし、

眠たければ眠ればいいし、

眠たくなければ起きてればいいし、

歌いたければ歌えばいいし、

黙っていたければ黙っていればいい。

 

サボりたければサボればいいし、

頑張りたければ頑張ればいいし、

ぐうたらしたければぐうたらすればいいし、

甘えたかったら甘えればいいし、

楽しかったら楽しめばいいし、

嬉しかったら喜べばいいし、

悲しかったら悲しめばいいし、

泣きたかったら泣けばいいし、

怒りたかったら怒ればいい。

 

好きならば好きになればいいし、

嫌いなら嫌いになればいいし、

好かれたら好かれればいいし、

嫌われたら嫌われればいい。

 

見たいなら見ればいいし、

聞きたいなら聞けばいいし、

話したいなら話せばいいし、

嗅ぎたいなら嗅げばいいし、

触れたいなら触れればいいし、

味わいたいなら味わえばいい。

 

見たくなければ見なければいいし、

聞きたくなければ聞かなければいいし、

話したくなければ話さなければいいし、

嗅ぎたくなければ嗅がなければいいし、

触れたくないなら触れなければいいし、

味わいたくなければ味わわなければいい。

 

本当はただそれだけのこと。

 

もうわかってるし、迷わなくていい。

 

びっくりするほど簡単単純。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかろうとすること

(*2016年2月に書いた文章です)
ぱっと手にとった池田晶子さんの著書のなかに、心に響く言葉を見つけたので、ご紹介したい。


『ーーーしかし、本当いうと、わからないものをわかることができるのは、じつは、「わかろう」という不断の意志でしかないのである。「わかろう」という意志のない人に、「わかる」ことは決してないのである。

ところで、「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、他でもない、愛である。

君にはなんにもわかってない
といった、自らする線引きの非論理性と狡さとを私は憎んだ。それでどうしてほしいのよ。なら、世の中の皆が皆、君は私でないからわからないと言い合ってごらん。

わかる力は愛である。
えてして人は気づいていない、真の知力は愛する力であることを。』

池田晶子著 『残酷人生論』(毎日新聞社)より。


「わかる力は愛である」。
シンプルにしていい言葉だなーとつくづく思う。小難しくもなくずばりである。

今日はたまたま、「わかる力は愛である」なテーマの話題を見聞きする機会があった。

内戦で生活が不安定になったシリアの女性たちの収入源として、女性たちの作った刺繍を販売する活動をする元シリア在住日本人女性がテレビ番組にて、昔、シリアに留学し困っていた時、家族のようにおおらかに招き入れてもらい助けられたこと、そして今、難民としてトルコで過酷な生活を送る仲間のシリア人にむけて「忘れてないよといい続ける」ことの大切さを語られていた。

じわ〜んとした。知らない土地、仲間のいない場所での一からの暮らしの心細さと過酷さ。そんな時に何時でもおおらかに受け入れて助けてもらえる事や、離れていても想い続けていると励まされる事がどれだけ支えになるだろう。心が傷つき不安定な時の「大丈夫だよ」「忘れてないよ、応援しているよ」。そして、それを続けられること。シンプルにして本当に大事なことだなーとしみじみ思った。そしたら、いつか心を取り戻して元気がでて、自分の足でなんとか歩こうとする時には叱咤激励して送り出すこともできる。そしてただ信じて見守れる。
どんな時も、ずっと変わらず信頼し理解しようとするからできることだ。

自分はできているだろうか?
心にゆとりがなかったり、自分の事で精一杯だったりするとなかなか難しかったりするけれど、そんな優しさを自分も忘れないでいられたらなあと、改めて考える良い機会だった。

そして最近、見聞きする話題や報道、自分たちを取り巻く世間の風潮が、いじめ的構造をはらんでいてなんか陰湿でいやだな〜とかんじる事が多々ある。たしかに、倫理的に許されないスキャンダルやニュースもあるけれど、それでもみじめな想いや弱さや葛藤、みっともない過ちや失敗、愚かさ情けなさは大なり小なり誰しもが経験し、幾つになってもこれからも経験するかもしれないこと。
今まで散々、失敗・挫折・恥をかいてきた自分としては、他人事だからと上から目線で、馬鹿にしたり、嘲笑ったり、非難したりなど、とてもできないのだ(汗)

理想論かもしれない。それでも、池田さんの言葉のようにもう少し、寛容に許し合って、共感し合って、助け合って、支え合いながら生きていけたら、もっとずっといいのにな〜と思う。

タイ語には「マイペンライ」という言葉がある。
「大丈夫・気にしない・心配しない」などを意味する、おおらかでちょっといい加減な、ずばりタイという国そのもののようなこの言葉を、昔よくタイに行っていた時耳にした。

今更ながら、とてもいい言葉だな〜とつくづく思うことがある。
いい意味で、今こそ「マイペンライ精神」、見習いタイものだ。
(〆はダジャレ・・・汗)

画材屋はテーマパークだ!

(*2016年2月に書いた文章です)

今日は5月に予定している展示用の指定の画材を買い出しに画材屋へ。

私は画材屋が大好きだ。

大抵、第一の目的は必要とする画材を入手するための買い出しなのだが、案外それよりも、目的から外れた画材や素材との不意打ちの出会いの方が、後々おもっても見なかった収穫をもたらすことがあったりするから、実は密かにいつも裏目的としてそれを楽しみにしていたりする。

先ずは、買い忘れのないように目的の画材をテキパキと入手し目的を果たし終えると、お店の中に所狭しと陳列された種類豊富な愛しの画材たちをゆっくりじっくりと見て回り始める。ふと立ち止まっては目を凝らし、手を伸ばし、よくよく調べ、触れ合い、好きなだけ愛でる(笑)

今までに見た事のない子を発見した時のときめきときたら!
ねこまっしぐら!ガン見である(笑)

一目惚れすることも多々あり、そういう時は迷わず即連れ帰り、お家にてさっそく愛でる。

用途はわからないし使ったことはないけれど、面白そうだな〜、使ってみたいな〜、気になるな〜と思うものも、そのときの懐事情と相談して大抵は連れ帰ることが多い。実際にお家にて触れ合ってみると思いがけないアイデアに結びつくことがあるから、そういうなんとなく気になる素材もみのがせなかったりするから面白い。もちろん全てがうまく行く訳でもなく、実際使ってみたら相性がイマイチだったなんて失敗も多々ある。まあ、それはそれとして収穫があったり。

イデアがあって、そのために必要な素材を探すパターンと同じくらいの割合で、たまたま出会った画材からアイデアが思いつくパターンも多いから画材屋はずっと居続けても飽きないのである。。

そういう意味で、わたしにとっていつも画材屋は刺激に満ちたテーマパークみたいなものなんだろう。しかも入場無料で待ち時間なし!サイコーだ!(笑)

嗚呼、夢が膨らむ!



その時期にしかメーカーが作っていないものもあったりするから、正に画材との出会いも一期一会である。

素っ裸のススメ

(*2016年3月に書いた文章です)

早いもので、もう三月!
あー早い!

最近、気になることとか目にしていいな〜と思ったこと。
共通点はみんな素っ裸だったこと!(笑)

動物、赤ちゃん、惚けていく老人、一生懸命何かに打ち込んでいる人。。

心から素っ裸に生きてる存在。
心をむき出しに魂ごと生きてる存在。
飾らず、人目も気にせず、そのまんま。

ただ素直に生きているだけだから、そもそもポジティブもネガティブさえもないし、優劣もない。上も下もないし、役に立つか立たないかの前提や理屈もない。

なんだそれでいいじゃんって、遠回りしてポンッて戻れた感じがあった。

いつの間にか、自分のやっていることを意味付けたり、何かの誰かの役に立たなくてはと理由をつけてしまって、いつ頃から理由以前の純粋な衝動で考える間もなくただやってた自分を失ったのかなって考えたら、進学とか受験で進路を意識し始めた時だったかもしれないと思った。

あの頃の違和感を今でも覚えてる。

未来さえも考えた事も無い、だから将来なんてわからない。わかっているのはただ変わらず絵を描いていられればいいとしか思っていなかったアホな私は、絵を描く仕事がいろいろあることも(イラストレーターという職業さえしらなかった)、進学するにもデザイン・日本画・油絵などこまかく専攻で選ばなきゃいけないのも、よくわからなかったのだ。

わたしにとって、ものを作ること絵を描くことはボーダレスいっしょくただったから、理解ができなかったのだ・・・(汗)

結局、学校には縁がなく、絵とも無縁の仕事ばかりしているけれど、なぜかありがたいことにイラストレーターのお仕事をさせていただけるようになったのだから人生は面白い。
それはいつも、周りの人が、出会う人が描かせてくださって。そして、自分もそれが楽しくて素直にその機会にただ乗ってきた。自分はつくづくしあわせものだなあ〜と思う。

最近はちょっと力んでしまっていたな。。

なので初心にかえろうと思う。
子供の頃のように「ただ描かずにはいられないから、楽しいから」それでオッケー。
それ以上でもそれ以下でもない!

結果的に、色んな人に作品を通して色々”感じて”もらえたのなら、わたしのしていることも役に立っているのかもしれないね。そんな感じ。

さて、どれだけ素っ裸になれるかな!

目標は我が家のうぱたち(笑)

あのこたちはただ居るだけで私をこよなく幸せにしてくれる無敵で素敵なこたちなんですもん♪

青い芝生

(*2016年3月に書いた文章です)

人は皆、自分のことは案外、一番自分がよくわかっていないものなのかもしれない。。

そして、不意打ちのように、自分の一番かけがえのないものを、さりげなく見つけ教えてくれるのは、いつも自分じゃない誰かだったりする。

そんな目から鱗な出来事を今日感じることがあって、今までの気分はなんだったのかと驚くほど力がぬけた。

そして思った。

「今までも、そしてこれからも、自分もみんなもこれでよい」のだと。

そのあと、Mr.Childrenの『名もなき詩』の歌詞をふと思いだした。
大好きな歌なのだ。

歌詞のフレーズで表現するなら、、、『自分の真実を握りしめている』のは案外、自分以外の誰かだったり、誰しもが『自分らしさの檻の中でもがき』ながら『あるがままに生きよう』と不器用にそれぞれが生きているのものなのだ。


自分が、素直に、あるがままに、ただ自分のままに生きていることで、知らぬ間に意図せずに、時に誰かを傷つけてしまったり、

逆に、誰かが、素直に、あるがままに、ただその人のままに生きていることで、思いがけずに勝手に、時に自分が傷ついたり。

それは時に、お互いの姿のなかに「自分に無くて、誰かに有るもの」を拡大レンズでみてしまうからなのかもしれない。そして、羨んだり、寂しくなったり、悲しくなったり、怒りが湧いたり、虚しくなったり。

人は誰だって「隣の芝生は青く見える」もので。

自分の”ささくれ”をそのまま直視し認め、感じきることはちょっと苦しい作業。

そういう感情や姿を誰かに見せるのも格好悪いし、見せて誰かを不快にさせたり心配かけたり迷惑もかけたくないからと、自分の中だけで解決しようとして、”自分らしさ”に増々閉じこもったり、”自分らしさ”を疑ってしまったりもする。

でも時に、自分だけでは抱えきれないほどの”ささくれ”を、素直に、あるがままに、そのまま誰かにぽろっと見せてしまった時に、お互いの姿を写す拡大レンズがくるっと反転する魔法にかかることがある。

「自分に無くて、誰かにあるもの」から「自分に有るもの」を見せてくれる拡大レンズに一瞬でかわるのだ。

「隣の芝生は青いけれど、実は自分の芝生は自分で思っているよりも案外、隣の芝生と同じく青かったんだ。。」と、誰かがさりげなく気づかせてくれたりするのだ。

そして、お互いの”有るもの=青い芝生”のかけがえの無さに気づく。
「自分も捨てたもんじゃない。せっかくだから存分に生かさないともったいない」と心からありがたいと大切に思えてくる。

それぞれが持っている自分だけの”青い芝生”をその人らしさというのかもしれない。そして、人が誰かに渡せるのはその人らしさだけで。きっと、唯一その人らしさだけが、どんなに分けても刈り取っても決して無くならないものなのだと思う。だから、安心してどんどん渡せば良い。唯一、無理せずに、誰かに分けられるものだから。

傷つくのを恐れず、自分の素直な表現を閉じずに開いていく時に、自分一人では決して気づけない、かげがえのない真実を、意外なほどサラッと、誰かが教えてくれるようだ。そして、力が抜けた最後の最後にほわっと気づく。みんな本当は誰だって、初めから損なわれてなどないし、そのまんまで十分すてきなのだと。

やはり、人は一人では生きていけないということなのだなあ。。

誰かと分け合いながら生きるから「人の間」って書いて人間っていうのか。

やっぱり 「人間」って面白いな〜。
ナンダカンダ言ってやっぱり私は「人間」が好きらしい。。
(宇宙人的つぶやき・・笑)