「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

人の為にしない

最近、"自分の為にする"という生き方が大切だなとしみじみ思うようになりました。

 

今までの私は、"人の為にする"ということを骨の髄まで染み込ませて生きてきました。"人の為にする"が良いことだと信じて疑わずに生きてきました。

 

それなのになぜ、それを変えようと思ったかというと、それでは真に自分も相手も幸せにならないと気づいたからです。

 

相手だけが幸せになればいいでも、自分だけが幸せになればいいでもなく、互いに幸せになれるのが本当にいいですよね。

 

誰かの役に立つ。人の為になる。

とても気分が良いことですよね。

自分がしたことがきっかけで誰かが助かったり、救われたり、喜んだりして自分が役に立てるととても嬉しいですよね。

こんな自分でも少しは誰かや何かの役に立てるんだ。必要とされるんだ。

そんな自分は価値がある。

そう思いますよね。

 

誰かを幸せにできたり喜ばせたり、助けることができることは素晴らしいことだと思うし、良いことだと思います。

そして、誰かを助けたい、喜ばせたいと思うこと、思えることは人としてとても健全な精神だと思うし、生きていく上でとても必要な事だと思います。

 

けれど、人はいつもどんな時でも誰かの役に立てるか、誰かを喜ばせられるか、誰かを助けられるかというとそういうわけではありません。どんなにしたくても、時にいろんな理由からできないことも沢山あります。

 

では、そういう時、役に立てない、喜ばせられない、助けられない時の自分は果たして価値がないのでしょうか?

 

そんなことはないと思うのです。

 

人は生まれた時と死ぬ時は必ず誰かの手を借りなければ生きることができないようになっています。(死に関しては事故や自死などは除いて)

誰しもが等しく自分1人ではなにもできない状態を、人生の始めと終わりに必ず体験します。

けれど生まれたばかりの“人の為に何もできない"赤ちゃんは無価値でしょうか?死ぬ間際寝たきりの"人の為になにもできない"老人や病人は無価値でしょうか?

 

ただ存在しているだけで、生きているだけですでに価値があると思うのです。

 

それどころか、生まれたばかりの赤ちゃんは誕生を祝福されるし、死に際の病人や老人はただ息をして心臓の鼓動が少し動いているだけでまだ生きていることに感謝されます。ただ共に存在しているだけで誰かを幸せにしているのです。

 

病気があったり、障害があったり、何もせずにただ家にいたり、何にもしない、できないと価値がないわけではありません。

 

何かの役に立たなければ、誰かのためにならなければ自己価値を感じられないというのは、自分に対して条件をつけていることになります。人の役に立てない自分、人を喜ばせられない自分、ダメな自分、かっこ悪い自分、失敗した自分、何にもできない自分、ボーとゴロゴロしている自分、無益に時を過ごす自分、どんな自分でさえもOKと思えた時に、自分に真に無条件でいられます。

 

自分の価値に条件をつけると人の価値にも条件をつけるようになります。けれど、自分の価値に無条件になれたら、人の価値にも無条件になれます。

 

どんな自分でも許せるようになれたら、どんな相手でも許せるようになります。

 

 

例えば、"人の為に"したことが相手にとって、喜ばしいこととして受け取ってもらえたならば良いけれど、時に、相手から批判されたり、感謝されなかったり、喜ばれなかったり、怒られたり、あっさりその事を忘れさられたり、足りないと要求されたり、文句を言われたり、馬鹿にされたり、酷い言葉を浴びせられることもあるかと思います。

 

そんな時、どうして"相手の為"にしたことなのにこんな目に遭わなくてはいけないのだろうと、とても悲しくなったり、寂しくなったり、虚しくなったり、時に腹を立てたり、絶望して辛くなったり苦しくなったりすることでしょう。

 

"相手の為"に役に立とうとした自分を否定・拒絶されたわけですから。

けれど、"相手の為"になにかできる自分に価値を置くということは、相手からの見返りを求めているということでもあるのです。

自分に条件付けをしているのだから、無意識に相手にも条件付けをしていることになります。

 

だから、自分にとって思いもよらない相手からの態度に納得できずに、無意識に相手を変えたくなったり自分にとって都合の良いようにコントロールしようとしてしまいます。そうでなければ、自分の価値が揺らぐからです。

 

だから、"相手の為"ではなくて"自分の為"に"自分の成長の為"に"自分の喜びの為"に誰かの役に立つこと、誰かを喜ばせること、誰かを助けることが大切になってきます。

 

"自分の成長の為""自分の喜びの為"だと、相手がどんな態度をとったとしても落胆しません。なぜなら初めから見返りを求めないからです。"自分の為"なので責任を自分でとることができるからです。相手の反応で自分の価値を計らなくなるので相手を都合よくコントロールしたくなることもなくなります。相手のせいにもしません。それどころか、"自分の成長の為""自分の喜びの為"に助けたり手伝ったり役に立たせてもらえることに感謝が湧いてくるかもしれません。

 

それは、自分が我慢して相手の全てを許すということではありません。自分に素直であることを許すと相手の素直さを許せるということです。

 

自分の為に自分の喜びの為に行動したことが、結果、誰かの役に立ったり、誰かを喜ばせたのなら真に互いに幸せですよね。

 

"人の為に"から"自分の為に"

他人軸ではなく自分軸。

そうなると楽だなと思います。