「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

だから橋を架け続ける

 

 

(この文章は2016年9月に書いたものです。)

最近、あらためて「コミュニケーション」について考える機会が立て続けにありました。そもそも、コミュニケーションってどーゆーことなのかって、根本的な初歩的なところをもう一回ちゃんとやっておきなさいよーって、まるで言われてるみたいな感じの出来事があったので備忘録としてちょっと書いておこうと思います。

 

コミュニケーションって、簡単にいうと、”私”と”あなた”との間でのやりとり・対話ですよね。キャッチボール。私がいて、あなたがいるから、あなたがいて、私がいるから成立する。私が一方的に発信していても、あなたが受け取らなければ成立しないし、逆に、私がなにも発信しなければ、あなたが受け取り返すこともできないわけで。どちらか一方だけでは成り立たないのがコミュニケーション。

 

そりゃそうだ(笑)

 

で、コミュニケーションをする上で、大切なことってやっぱり、双方が”素直であること”と”直接ハッキリと意思表示をすること”が大前提だよなぁと思ったわけです。

 

はい、もう一回、そりゃそうだ(笑)

 

不特定多数に向けて発信するのとは違うんですよ。一対一のやり取りなのだから。

 

でも案外、”素直であること”と”直接ハッキリ意思表示をすること”っていう当たり前のことができてないもので。(自分も含め)「ややこしくしたくない」「めんどくさい」という言葉で都合が悪くなると逃げてしまうことってありますよね。

 

どんな風かというと、必要以上に勝手に、①空気を読んだり、②遠慮したり、③建前だったり、④人に良く思われようとしたり、⑤自分にとって都合がいいように決めつけたり、⑥周りに(相手に)合わせすぎたり、我慢したり、⑦スルーしたり(無視)、こんな手口を使います(笑)

 

…あぁ、嫌な汗が沢山でてきますね(無意識に自分もやってるかもしれないので自戒もこめ。爆)

 

波風立てずに穏便に、仲良く、平和的にってたしかに大事なのだけれど、本心に反して、「ややこしくしたくない」「めんどくさい」からって①〜⑦のことをやり続けると、本当はもっと疲れますよね。。だって本心じゃないから。

とほほ。。

 

例えば、「嫌なものは嫌だ」とか、「自分はモーレツにあなたに腹たってんだ!」とか「悲しかった。傷つきました。」とか、一見相手に対してネガティヴに思えるような意思表示をハッキリ直接することって、その時は相手に嫌われるかもしれないし、傷つけるかもしれないし、嫌な気分にさせるかもしれないから、なかなか勇気がいることだけれど、時にはこれが一番傷が浅く平和的手段になることもありますよね。そうすることで誤解がとけてスッキリかえって仲直りすることだってあるかもしれない。(スッパリ引きずらなければ)

 

一方で、「嬉しかった」「好きです」などという相手に対してのポジティブな意思表示も、照れずに素直にすることも大事ですよね。恥ずかしいとか、言わなくたってわかるだろとか、察しろなんて表現しなかったら、それは心の中で思っていても相手に伝わらなかったら「ない」と同じことのようにも思います。

 

相手に発した言葉を受け止めてもらえないこと程、不安な事はないのです。

 

反応するんじゃなく、応答。

 

ネガティヴであれ、ポジティブであれ、ハッキリ素直に直接意思表示するというのは、相手に対しての愛と信頼がなければできないものね。(そもそも愛と信頼がなければ無視するだろう…どーでもよい人に対しては。愛の反対語は無関心)

 

日本では特に、「場に合わせる」とか「空気を読む」とか「察する」とかって文化的なコミュニケーションが染み付いているので、なかなか素直な気持ちをハッキリ直接伝えるコミュニケーション術を回避してしまう傾向にあるかもしれないけれど、(それが悪い訳ではないのですよ)最近、やっぱり私はエスパーじゃないし、空気には文字は書かれてないから読めないし(汗)、それがもしできるなら、人間、五感を持ってる意味ないし、文字も言葉もそもそもいらないんじゃないかって思うのであります…(^_^;)

 

だから、やっぱり、どんな時でも誰に対しても、直接一人一人に素直な意思表示のコミュニケーションを心がけたいなぁと思ったのでありました。なんといってもそれが双方一番楽だしねぇ。

 

それから、コミュニケーションのキャッチボールが、対等じゃないパターンもありますよね。

 

相手を自分の都合のいいように思い通りにしようとして、ダブルバインドして有無を言わさなかったり、相手をコントロールするようなやりとりは、ただの支配関係であり対等ではないから、最早、コミュニケーションとは言えなかったり。コントロールする側は、常に自分が有利でいたい、単に相手の同意を得て自尊心を保ちたいだけなのかも…それは信頼関係からは程遠く。

 

コミュニケーションの基本はどんな相手であっても対等であり、尊敬の念を忘れない事だと思うのです。

 

人間関係は、色々な側面があるものですねぇ…しみじみ。

 

さて、最後に、コミュニケーションについて考えた時にキョーレツに思い出したのが、昔、BL漫画好きな姉(爆)に勧められて読んだ、水城せとなさんの『窮鼠はチーズの夢を見る』と続編の『俎上の鯉は二度跳ねる』というBL漫画です。

 

えっと、雑食な姉と違い、普段BL漫画に興味ない私ですが、この作品はかなり好きです。BL漫画なので、恭一と今ケ瀬という男二人が主人公の恋愛漫画なのですが、この二人のやりとりが本当に凄いのです。もう、徹底的な痴話喧嘩(笑)弱さもカッコ悪さも愚かさも全部見せ合いながら、ぶつかりまくりながらも、ずっと互いに向き合い続けていく。

 

そして、最後の場面での恭一のセリフ

 

『 愛の言葉は難しいよ。

お前にはきっと俺の気持ちは永遠に伝わらないだろう。

隘路はお前だ。そして、俺だ。

この溝は永遠に埋まらない。

だから橋を架け続ける。濁流に流されたら、また、架け直す』

 

このセリフには考えさせられるものがありますね。

 

家族であっても、恋人であっても、友達であっても、どんなに大切な好きな人であっても、人間は全員が1人として同じ人などいないし、違うからこそ、絶対に共有できない、埋めることのできない部分”溝”はあって。

 

無理に誰とでも共有共感なんてする必要はないし、みんなに求める必要はないけれど、1人1人みんな違うから、絶対的な溝、境界線があるからこそ、繋がること、橋を掛けようとすることが大事なんだと思うのです。

 

そして、橋を掛け続けようと意志することは愛なのだろうなぁと。

 

まぁ、できればあまり喧嘩せず、初めから穏やかな心地よい関係性が一番ではありますけど、そもそも穏やかな関係性、平和とは、誰かの我慢や犠牲、遠慮で成り立たせるものではないと思うのです。

誰1人我慢や遠慮をせずに、素直でいることは、時に意見の対立をすることもあるかもしれません。けれど、互いの立場考え方の違い、思いを互いに向けてちゃんと表現をしなければ、真の意味で相互理解して平和にすることなどできないのです。

 

だからこそ、遠慮せず、腹を割り素直に表現することがとても大切なのです。

そして、素直に思いを表現することは互いに対しての感謝であり愛でありリスペクトでもあると思うのです。

 

コミュニケーションとは、そういうものだと思います。

 

脱線しましたが、真のコミュニケーションについてなかなか考えさせられる作品の一つです。ご興味ある方は、是非ともご一読おススメですよ。

 

そんな訳で、長々とコミュニケーションについてしみじみ思ったことを自戒も込めつつ書いてみました。