「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

私の太陽

(*2015年7月に書いた文章です)

 

昨日は土用の丑の日でした。


確か、暑気払いとして、うなぎを食べるということだったか。


いよいよ夏本番の暑さになってきた。


白昼、ジリジリと照りつける陽射しが肌を焼き、汗がじわりと吹き出し滴り落ちる。


緑は青々と繁り、生き物の熱量が絶頂に達する真夏は、同時に死者の季節でもある。


夏はお祭りが多い。


腹に響く太鼓のリズムに合わせ、蒸し暑い闇夜に明かりを灯し、ご先祖さまたちとぐるぐると輪になって、歌いながらゆったりと踊る盆踊り。


メメントモリ

死を想え

という言葉があるが。

 

真夏は太陽の恵みを目一杯受け、生命力をみなぎらせるからこそ、その源である、死者に、先祖に、そして故郷という自分のルーツに思いを馳せてしまうものなのかもしれない。

 

私は長らく、故郷コンプレックスをもっていたように思う。


幼い頃から引っ越しが多く、住む場所を転々としてきたためだろう。


それ故か、理想の故郷に憧れ、家族の絆に拘り、人一倍それらに執着してきたようにおもう。


何処にいても、誰といても、いつも根無し草で、アウェイ感を拭えずにいたが、ここのところ、ちょっと心境が変化しつつあることにやっと気づいた。

 

「あぁ、そうか、自分がいる場所が常に故郷でそこで出会う人がみんな家族みたいなものなんだよなぁ。。」と。

 

そう気づいた時に、今まで暮らしてきた、通り過ぎた、色んな土地のすべてが故郷で、そこで出会ってきた人たちみんなが家族だったんだよなぁと、


これから行くかもしれないであろう色んな土地と出会う人たちのすべてが既に故郷で家族なんだよなと、ごく自然に思えたのだ。


きっと今までだったら、理想の故郷を求めて、いつまでも世界の最果てまで探し歩き続けていたかもしれない。そして、手に入れた故郷を手放すまいとしがみついたかもしれないし、離れた人たちとの別れをずっと悲しみ続けていたかもしれない。


でも、もうそんなことはしなくてよいのかもしれない。


以前、けだるい逆回転という記事で、「太陽が東から昇って西に沈むのではなく、地球が西から東へ左回転しているのだ」と書いた。


太陽は動いていないのだ。


太陽は微動だにせずにただそこにいて燃え続けている。地球や水星や金星や火星たちが周りをくるくる回っているだけなのだ。


それらに例えるなら、自分が太陽で、故郷が太陽の周りをくるくると左回転する地球や水星や金星や火星たちなのだ。


風景は動きつづける。
だから場所としての故郷はいつも変わり続ける。

けれど、自分自身はいつも「ここ」にいて脈打ち続ける。変わらない。


自分自身が不変のマイホーム。


そんな風に気づいたら、もう何処にいったって堂々と、我が故郷顔して、馴染んで楽しんでしまえばよいと。


そして、いつも新しい土地に行くたびに、出会うであろう人たちが、きっとやっと会える新しい家族なのだと。


故郷と家族とつながる合言葉は、やっぱり
「ありがとう」と「こんにちは」だろね。


そう思えたら、目に見えない鳥籠みたいなものからやっと解放されたように思えて、ようやく地に足がちゃんと着いたように感じた。


家族と故郷。


他人同士が作っては解体し、作っては解体していく一瞬のあったかい夢のようなもの。


当たり前のようだけど、奇蹟みたいなもの。

あらためて、ご先祖さまに感謝したくなった。


しみじみ。