「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

笑う門には福来る。

 

私は自分に誇れる生き方ができてるかな?

私は自分に誇れる生き方がしたいな。

 

そもそも自分に誇れる生き方ってなんだと思う?

 

自分はすごい人だねって賞賛されてドヤ顔することなのかな?

 

自分は正しい人間だとヒーロー気取りすることなのかな?

 

自分は誰かの役に立ってるって感謝されることなのかな?

 

うん。たしかにすごく気分いいよね!

 

全部、周りからチヤホヤされて気持ちいいよ。自分ってすごい人だって思えるし。誰かに承認されるってものすごく自己肯定感アップして自分はこれでよいんだと思えて安心するものね。

 

でも、周りからチヤホヤされなくなったらどうするのかな?自分はすごい人じゃないのかな?必要じゃないのかな?って思って不安になってしまうよね?そしたらまた認めてもらいたくて、安心したくて、賞賛してもらいたい、感謝してもらいたいってチヤホヤしてくれる誰かを探し求め始めるよね。大丈夫だよって言って欲しくて。

自分以外の外側の誰かにそれを求めると、きっと、求めても求めても、欲しても欲してもずっと満足しないんだよ。

それは底なし沼みたいなもの。

いつまでも安心できないんだよ。

 

だから、誰かに承認されることよりももっと、自分が自分を承認できることの方が大切なんじゃないかな?って思う。

 

先ず他の誰よりも自分自身が。

誰かと比べることもなく。

 

例え、強くなくても、弱くても、頭が悪くても、カッコ悪くても、才能がなくても、地位や名誉がなくても、お金持ちじゃなくても、

自分は自分。

自分はこれでオッケーだよ。

大丈夫だよって。

 

 

そして、自分で自分を承認するというのは、自分に対してどれだけ素直で正直でいられるかオッケーをだせるかということ。

 

自分に素直に正直に本音で生きていると、時々馬鹿を見たり傷ついたりもするね。

逆に意図せずに誰かを傷つけてしまうこともあるね。

 

そんな自分の不器用さに落ち込んで、何を信じて良いのかわからなくなって、人間不信に陥りそうになることもあるね。

 

でも、自分に素直ということは裏表のないそのまんまの自分ってこと。 

 

私は着ぐるみを上から着て自分じゃないニセモノの自分で誰からもなんとなーく好かれるより、着ぐるみを脱いだ素っ裸のホンモノの自分で愛されたり嫌われたりする方がずっといい。

 

素っ裸だから時々肌が傷つくときもあるけど、どうせ自己治癒力高いから傷もちゃんと元どおりに治っちゃうから大丈夫。治せる力は自分の中にちゃんとあるって信じているから。

 

自分に素直に生きるって、自分に向き合って自分の人生に責任を待つということ。

 

そして自分に素直に生きるって、結局は誰に対しても誠実であるということになるんだ。


だから、自分に素直に生きていれば、同じような素直で誠実な人しか周りに残らない。

 

色んな人に出会って向き合って自分をたくさん見せてもらいながら、色んな感情を味わって、それで最後にはこんなこともあったねと、ガハハと全部笑い飛ばしちゃうんだ。

 

笑う門には福来るだもんね。

 

私にとって誇れる生き方とはそういうことだなって思う。

 

私はそういう風に生きたいな。

 

だから橋を架け続ける

 

 

(この文章は2016年9月に書いたものです。)

最近、あらためて「コミュニケーション」について考える機会が立て続けにありました。そもそも、コミュニケーションってどーゆーことなのかって、根本的な初歩的なところをもう一回ちゃんとやっておきなさいよーって、まるで言われてるみたいな感じの出来事があったので備忘録としてちょっと書いておこうと思います。

 

コミュニケーションって、簡単にいうと、”私”と”あなた”との間でのやりとり・対話ですよね。キャッチボール。私がいて、あなたがいるから、あなたがいて、私がいるから成立する。私が一方的に発信していても、あなたが受け取らなければ成立しないし、逆に、私がなにも発信しなければ、あなたが受け取り返すこともできないわけで。どちらか一方だけでは成り立たないのがコミュニケーション。

 

そりゃそうだ(笑)

 

で、コミュニケーションをする上で、大切なことってやっぱり、双方が”素直であること”と”直接ハッキリと意思表示をすること”が大前提だよなぁと思ったわけです。

 

はい、もう一回、そりゃそうだ(笑)

 

不特定多数に向けて発信するのとは違うんですよ。一対一のやり取りなのだから。

 

でも案外、”素直であること”と”直接ハッキリ意思表示をすること”っていう当たり前のことができてないもので。(自分も含め)「ややこしくしたくない」「めんどくさい」という言葉で都合が悪くなると逃げてしまうことってありますよね。

 

どんな風かというと、必要以上に勝手に、①空気を読んだり、②遠慮したり、③建前だったり、④人に良く思われようとしたり、⑤自分にとって都合がいいように決めつけたり、⑥周りに(相手に)合わせすぎたり、我慢したり、⑦スルーしたり(無視)、こんな手口を使います(笑)

 

…あぁ、嫌な汗が沢山でてきますね(無意識に自分もやってるかもしれないので自戒もこめ。爆)

 

波風立てずに穏便に、仲良く、平和的にってたしかに大事なのだけれど、本心に反して、「ややこしくしたくない」「めんどくさい」からって①〜⑦のことをやり続けると、本当はもっと疲れますよね。。だって本心じゃないから。

とほほ。。

 

例えば、「嫌なものは嫌だ」とか、「自分はモーレツにあなたに腹たってんだ!」とか「悲しかった。傷つきました。」とか、一見相手に対してネガティヴに思えるような意思表示をハッキリ直接することって、その時は相手に嫌われるかもしれないし、傷つけるかもしれないし、嫌な気分にさせるかもしれないから、なかなか勇気がいることだけれど、時にはこれが一番傷が浅く平和的手段になることもありますよね。そうすることで誤解がとけてスッキリかえって仲直りすることだってあるかもしれない。(スッパリ引きずらなければ)

 

一方で、「嬉しかった」「好きです」などという相手に対してのポジティブな意思表示も、照れずに素直にすることも大事ですよね。恥ずかしいとか、言わなくたってわかるだろとか、察しろなんて表現しなかったら、それは心の中で思っていても相手に伝わらなかったら「ない」と同じことのようにも思います。

 

相手に発した言葉を受け止めてもらえないこと程、不安な事はないのです。

 

反応するんじゃなく、応答。

 

ネガティヴであれ、ポジティブであれ、ハッキリ素直に直接意思表示するというのは、相手に対しての愛と信頼がなければできないものね。(そもそも愛と信頼がなければ無視するだろう…どーでもよい人に対しては。愛の反対語は無関心)

 

日本では特に、「場に合わせる」とか「空気を読む」とか「察する」とかって文化的なコミュニケーションが染み付いているので、なかなか素直な気持ちをハッキリ直接伝えるコミュニケーション術を回避してしまう傾向にあるかもしれないけれど、(それが悪い訳ではないのですよ)最近、やっぱり私はエスパーじゃないし、空気には文字は書かれてないから読めないし(汗)、それがもしできるなら、人間、五感を持ってる意味ないし、文字も言葉もそもそもいらないんじゃないかって思うのであります…(^_^;)

 

だから、やっぱり、どんな時でも誰に対しても、直接一人一人に素直な意思表示のコミュニケーションを心がけたいなぁと思ったのでありました。なんといってもそれが双方一番楽だしねぇ。

 

それから、コミュニケーションのキャッチボールが、対等じゃないパターンもありますよね。

 

相手を自分の都合のいいように思い通りにしようとして、ダブルバインドして有無を言わさなかったり、相手をコントロールするようなやりとりは、ただの支配関係であり対等ではないから、最早、コミュニケーションとは言えなかったり。コントロールする側は、常に自分が有利でいたい、単に相手の同意を得て自尊心を保ちたいだけなのかも…それは信頼関係からは程遠く。

 

コミュニケーションの基本はどんな相手であっても対等であり、尊敬の念を忘れない事だと思うのです。

 

人間関係は、色々な側面があるものですねぇ…しみじみ。

 

さて、最後に、コミュニケーションについて考えた時にキョーレツに思い出したのが、昔、BL漫画好きな姉(爆)に勧められて読んだ、水城せとなさんの『窮鼠はチーズの夢を見る』と続編の『俎上の鯉は二度跳ねる』というBL漫画です。

 

えっと、雑食な姉と違い、普段BL漫画に興味ない私ですが、この作品はかなり好きです。BL漫画なので、恭一と今ケ瀬という男二人が主人公の恋愛漫画なのですが、この二人のやりとりが本当に凄いのです。もう、徹底的な痴話喧嘩(笑)弱さもカッコ悪さも愚かさも全部見せ合いながら、ぶつかりまくりながらも、ずっと互いに向き合い続けていく。

 

そして、最後の場面での恭一のセリフ

 

『 愛の言葉は難しいよ。

お前にはきっと俺の気持ちは永遠に伝わらないだろう。

隘路はお前だ。そして、俺だ。

この溝は永遠に埋まらない。

だから橋を架け続ける。濁流に流されたら、また、架け直す』

 

このセリフには考えさせられるものがありますね。

 

家族であっても、恋人であっても、友達であっても、どんなに大切な好きな人であっても、人間は全員が1人として同じ人などいないし、違うからこそ、絶対に共有できない、埋めることのできない部分”溝”はあって。

 

無理に誰とでも共有共感なんてする必要はないし、みんなに求める必要はないけれど、1人1人みんな違うから、絶対的な溝、境界線があるからこそ、繋がること、橋を掛けようとすることが大事なんだと思うのです。

 

そして、橋を掛け続けようと意志することは愛なのだろうなぁと。

 

まぁ、できればあまり喧嘩せず、初めから穏やかな心地よい関係性が一番ではありますけど、そもそも穏やかな関係性、平和とは、誰かの我慢や犠牲、遠慮で成り立たせるものではないと思うのです。

誰1人我慢や遠慮をせずに、素直でいることは、時に意見の対立をすることもあるかもしれません。けれど、互いの立場考え方の違い、思いを互いに向けてちゃんと表現をしなければ、真の意味で相互理解して平和にすることなどできないのです。

 

だからこそ、遠慮せず、腹を割り素直に表現することがとても大切なのです。

そして、素直に思いを表現することは互いに対しての感謝であり愛でありリスペクトでもあると思うのです。

 

コミュニケーションとは、そういうものだと思います。

 

脱線しましたが、真のコミュニケーションについてなかなか考えさせられる作品の一つです。ご興味ある方は、是非ともご一読おススメですよ。

 

そんな訳で、長々とコミュニケーションについてしみじみ思ったことを自戒も込めつつ書いてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信じぬく力

遅ればせながら、年始に映画「君の名は」のテレビ放映を見た。社会現象にもなるほどの世界的な大ヒットアニメなだけにずっと気にはなっていたものの、なかなか映画を見ずに今日まで至っていた。放送直前にたまたまツイッターのタイムラインに流れてきたツイートで放映を知り、頭五分くらい欠けたものの、やっと見ることができた。

作品と縁があるタイミングってそんなものである。

 

見た感想。

個人的に響くこと感じること思うことは多々あった。とりあえず、月並みな感想として絵がとても美しくRADWIMPSの音楽がかなり印象的で物語の構成もとても面白い作品だった。方々で物語自体の色んな分析や感想があるだろうから改めて詳しい内容について取り上げて書こうとは思わない。

 

ひとつだけ敢えて取り上げたい私が一番印象に残ったシーンは、彗星落下直前に瀧から三葉に組紐を返すシーン。

 

三葉の身に起こる未来を知っている瀧は、三葉と町のみんなを救いたい一心で三葉の身体に入ってなんとか彗星落下から町を救おうと奔走するが、そのためのキーパーソンである父親を説得することだけは彼女自身じゃなければできないことを思い知る。

 

必死になって彼女を探し、やっと本物の三葉と入れ替わり再会を果たす。その時に瀧は三葉に以前受け取った組紐を返す。

 

そこから、目覚めた本物の三葉が町を救うために町長である父親を説得しに奔走して遂には町を救う。

 

そのくだりを見ていて感じたのは「真心」と「信じぬく力」。

 

三葉の命を救いたい一心であきらめずに行動した瀧。

けれど最後の最後は三葉自身じゃなければ解決できないし、自分が代わりに解決できないことを思い知り、彼女自身の未来の選択を彼女の手に委ねることにする。そして三葉は瀧の想いを受け取り、自分自身で未来を変えるために行動していく。

 

それは、相手を信じ自分を信じぬくということだ。

 

組紐を返す事がそれを象徴している。

相手を信じているからこそ本人に返すのだ。

 

瀧は三葉の"一つの未来"を知っているけれど、実際に未来を選び変えることは三葉本人でなくてはできないし瀧がその先介入することはできないのである。そして、三葉は瀧が託した想いを信じて受け取って、自分の手で未来を選び解決していかなくてはいけない。

 

自分にとってかけがえのない

とても大切な人。

ただ相手に生きていてほしい。

幸せであってほしい。

 

そんな真心と純粋な動機だけで一心に行動する2人の「相手と自分自身を信じ抜く力」そして「選び行動していく意思」がとても胸に響くものがあった。

 

2018年。

 

「どんな風に生きたいですか?

自分の信念はなんですか?」

 

と思春期の2人の男女の主人公が命懸けで純粋に私たちに問いかけた年始の夜。

 

一年の計は元旦にありとはいうが、

そんなことに想いを馳せる、年始に相応しいステキな作品だったなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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置かれた場所で咲く

 (この文章は2017年1月1日にかいたものです。)

 

人がこの世を去る時、その命と引き換えに、どんなものにも代え難い素晴らしいプレゼントをこの世に残していく。

 

残された人が、その後を生きていくための”光”を必ず残して人はあの世へと旅立つ。

 

宮沢賢治さんの「永訣の朝」のように。

 

そして残された人は、その時は悲しみに飲み込まれて、その”光”のプレゼントの真の意味や祝福にはすぐには気づけない。

 

 けれど、時間が経てば経つほどに、その”光”にどれほどに支えられて生きてこられたか、そしてそれがどれほどに自分を大きく成長させたか、その意味や祝福にだんだんと気づかされて、本当の愛の深さを思い知る。

 

”死”とは人が最期にできる一番の贈り物なのかもしれない。

 

 

そして同じように、誰か著名な方が亡くなる時というのは、その方の思想や生き方が、広く世の中にクローズアップされる必要があるタイミングで旅立たれるように感じることが多々ある。

 

まるで、寿命を迎える星が超新星爆発するかの如く、その命と引き換えに、強烈な光を解き放ち、”新しい星”の種となる”愛”を惜しみなく周囲に振り撒きながら、最期に私たちに大きな大きなプレゼントを置いていって、そのお役割を果たし終えてから旅立ってくれるように思える。

 

新しい年を迎える直前の2016年大晦日、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが12月30日に亡くなられたというニュースを知る。

 

なんとなく気になって、改めて渡辺和子さんの著書、ベストセラーの「置かれた場所で咲きなさい」、「幸せはあなたの心が決める」、「面倒だから、しよう」の3冊を早速購入して読む大晦日となった。

 

やはり、今だからこそ心に響く珠玉の言葉に溢れていて、年末年始の節目に手に取り読むことができてよかったなと思う。

 

 

一部ご紹介。

 

 

「人生にポッカリ開いた穴から、これまで見えなかったものが見えてくる。」「思わぬ不幸な出来事や失敗から、本当に大切なことに気づくことがある。」

 

「一生懸命はよいことだが、休息も必要。働くことは素晴らしい。しかし、仕事の奴隷になってはいけない。」

 

「いい出会いにするためには、自分が出会いを育てなければならない。」「出会っただけでは信頼関係は結べない。このご縁を大事にしようという気持ちを育てていこう。」

 

「生き急ぐよりも心にゆとりを。時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。」「待つことで、心にゆとりができると気付いた時、生きている現在は、より充実したものになる。」

 

「倒れても立ち上がり、歩き続けることが大切。時には立ち止まって休んでもいい。再び歩き出せるかが、目標達成の分かれ道。」

 

「人間の自由とは諸条件からの自由ではなく、それら諸条件に対して自分のあり方を決める自由なのだ。」

 

「愛は、決して相手を不自由にするものではありません。愛とは、相手をより自由にするものでこそあれ、縛り、殺すようなものであってはならないのです」

 

「ほかの人になる必要はない。また、ほかの人をあなたと同じだと思うのは大間違い。私たちの一人ひとりが、かけがえのない存在。人と比べて落ち込まなくていい。」

 

他にも心に響く言葉がたくさん。一部を抜粋。

 

 

そして、

 

「置かれた場所で咲きなさい。咲くということは、仕方ないとあきらめるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです。」「置かれた所こそが、今のあなたの居場所なのです」

 

 とくに、本のタイトルでもあるこの言葉が胸に響く。この言葉で思い出すのが、2016年象徴的だったSMAPの解散で再びヒットした「世界に一つだけの花」という曲。

 

2016年は個人的には、花を咲かせる以前の、暗い土中にてひたすら芽を出す前に根を張るような”形や成果がみえない”地道な一年だったように思う。土中で青空さえも見えず、早く土の中から出たいのに、このままもしかしたら青空さえも見ず、花さえも咲かずに終えてしまうのではないかと疑いたくなるようなジレンマの日々に、何度も心が折れそうにもなった。

けれど、周りの人に支えられながら、年の終わりには、栄養を蓄えて、ようやく土の中から芽を出せそうかな?という光を感じられた。

 

2017年、今年も周りの人たちへの感謝を忘れずご縁を大切にしながら、青空の元、風を感じながら自分の置かれた場所で地道に根を張りながら、私なりの花を咲かせられるような一年にしたい。

 

私には私でしか咲かせられない花がある。

 

それを楽しみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

胸を貸したり借りたり

(この文章は2016年1月に書いたものです。)

 

今日は成人の日ですね~。


成人式を迎えられる20歳のみなさん、御目出度うございます!


そんなわけで自分の成人の日を思い出しながら、成人って何だろうと想いを馳せてみよう。


そうそう、自分の成人式は関東地方に稀に見る大雪が降った年でした!なので、成人式には参加せず、一日中雪掻きしてましたね…(ーー;)


お着物汚しちゃうし。って、実のところはその着物さえ買っても借りてもいなかったんですけど(笑)


雪が降っても降らなくても、私は最初から式に参加する気がなかったんです。


…ナゼかというと、、、


その頃の私は、学生でも正社員でもなく世間でフリーターと呼ばれる立場に身をおきながら絵を描いていて、まだ何者にもなれていない自分に言い様のないコンプレックスだらけで、学生生活を謳歌しているであろう同窓生たちの中に混じって、

「今どうしてるの~?元気だった~?着物かわいい~!」

などと無邪気に進捗状況を語り合う気になど全然なれなかった(汗)


それに、あの頃の私には、何をもって成人なのか、年齢だけで形だけの成人式に参加する意義や意味が単純に全然わからなかったのでした。。


目の前の生活を滞りなく営むため、雪掻きをすることの方がずっと重要で…
(ーー;)


そして現実は、職場で10も20も30も親程に歳の離れた「成人の大先輩達」に囲まれ働く日々の中、いつも「成人の先輩」達がつきつけてくる理不尽さに怒りばかりを感じながら、ひたすら悶々としていたのでした(笑)


そう、大人にもなりきれず子供にももどれない、何者にもなりきれない中途半端な自分の説得力の無さを日々突きつけられて、それでもいつも対等に立ち向かおうと精一杯背伸びをして、ずっとツンツンしてたなぁ。。


ははは~(^_^;)


あ、ちなみに、そんな理不尽さを日々私に教えこんでくださった「成人の大先輩」の上司を思い出したのがきっかけで書いたのが、昨年の「ショートショート豆本作ってきました~④」のサンタさんの話なのです~。


私が19歳~働いていた医療系の職場の上司のそのオッさんは、髪の毛が真っ白だけど名前は「黒○」さん。


若い頃は俳優志望だった事をいつも車で現場の移動中に聞かされ続け、毎年クリスマスが近づくと「クリスマスは苦しみます」という訳のわからない駄洒落を言い放ち、チームの責任者であるにも関わらず、仕事のミスをいつも下っ端の私に押し付ける無責任な人だった(笑)


その頃は、そのオッさんが心の底から大っ嫌いで。


だから私は悔しくて、その職場で嘱託社員になって、数年後絵の仕事を本格的に専念するために辞めてと猛烈に働くことができたのですが(爆)


そして、辞めてから数年後「黒○」さんの退職祝いに呼ばれて久々にお会いした時の事。

久しぶりに会ったにも関わらず、ツンツン生意気だった元部下の私の顔をみて喜んでくださり、その後お酒を飲み交わしながら、しみじみと「黒○」さんが、成人して働き始めた娘さんの事やご家族の事を、顔をほころばせながら嬉しそうに話す姿をみた時に、、、


大っ嫌いが大好きに、そして尊敬に変わっちゃった(笑)


不思議なんですけどね。


それと同時に、「俳優の夢をあきらめたくせに、仕事は無責任だった」なんて、なにも知らずに軽蔑していた若かりし頃の自分が恥ずかしくなったといいますか。。


「黒○」さんなりの「責任」を果たした大先輩の姿しかそこにはなく。


上司のいいとこもやなとこも全部、やっと私なりに咀嚼できたその瞬間、
「あ、今私ちょっとだけ大人になれたかな?」と思ったものです。


思い返すと、未熟な私は今までたくさんの「成人の先輩達」に胸をお借りしてきたなぁと。


その貴重な機会をなんども失敗して潰すこともありましたし、活かしきれず愕然とすることもありました。。


にも関わらず、何度も信頼してチャンスを与えてくださいました。胸を貸す方にもすごくリスクがあるのに。


今でもそれは変わらず。
本当にしみじみ、ありがたいことです。


逆に、何度も胸を貸しては一緒に泡食ってなんてことをしながら、(泡食ってないフリをしているが内実は超オロオロしてたり)胸を貸すことで成長させてもらったりね。


だから、成人式を過ぎた今の私的には、「成人の日」とはそんな風に胸を貸してくださったり胸を貸させてくれた、たくさんの方に改めて感謝して「自分の道を確認する日」としたいなぁ。


人は何歳になっても不完全で、その度に互いに胸を借りたり貸したりしつつ、それぞれの通過儀礼を通りながら、自分なりに「大人」を生きていこうとするものなのかもしれない。


去年よりはもうちょっと、気持ちよく胸を貸せる人に今年はなれたらいーなー!

ぼくらが旅に出る理由

 

今日は素晴らしい晴れ!お天気がいいせいか、空気が凛として空はスキッと澄んでいて、光の透明度が増してるかんじがしてとても清々しい。


そんな冬の透明な空を感じたからか、最近、小沢健二さんについての話題をたまたま目にしたからなのか、大好きな小沢健二さんの『ぼくらが旅に出る理由』という曲を急に思い出しました!


小沢健二さん、懐かしい~~!(≧∇≦)


しかも同じ誕生日!(年は違いますよ…汗)


昔、オリーブ少女でしたから(笑)
渋谷系の方々の曲を愛聴しておりました(^ ^)


フリッパーズギター
コーネリアス(小山田圭吾)
小沢健二
ピチカートファイブ


あぁ、懐かしい~!

 

で、久々に聴いてみたのですが、、、


あらためて聴くとすっごくいい!

 


♪~遠くまで旅する恋人に

あふれる幸せを祈るよ

ぼくらの住むこの世界では

太陽がいつものぼり

喜びと悲しみが時に訪ねる

♪~遠くから届く宇宙の光

街中でつづいてく暮らし

ぼくらの住むこの世界では

旅に出る理由があり

誰もみな手を振っては

しばし別れる


(一部だけ歌詞抜粋しました)

 

オリーブ少女時代に聞いたこの曲、当時は恋人同士の心情の歌詞のステキな曲にしかきこえなかったのですが、今はこの歌詞のシチュエーションが恋人同士の心情だけじゃない色んな風に思えるから自分も年を重ねたものだとしみじみ思う…(笑)

 

「旅に出る恋人」が色んな人に置き換えられて。


例えば、


昔仲良かった友達、


昔住んでいた街の人たち、


昔の職場の人たち、


今まで色んなところですごくお世話になった色んな人たち、、、


もう疎遠になってしまった、今までに出会った自分にとってのかけがえのない人たち。


それから、もう二度と会えない、この世を卒業して先にあの世に”旅立ってしまった”大切な人たち。

 

♪~こんなに遠く離れていると愛はまたふかまってくのと

 

まるで、親元を離れて独り立ちする子供が離れて知る親心のような歌詞だな…


そうなんですよね。


生きてる時よりも、年々不思議と、良いところばかりしか思い出せなくなって、どんどんその人への愛に不純物がなくなってく。


まるで降り注ぐ太陽の光とか、高く澄んだ青空とか、ふわりと包みこむ風みたいになってく。


軽やかに自分を包む当たり前の愛になっちゃっただけなんだ。


当たり前だからこそ、愛が深いんだ。


当たり前すぎて、時々忘れちゃったように失ってしまったようにおもうけど、それは忘れたわけでも失ったわけじゃない。


一体化しちゃっただけなんだ。


だって、いつだって太陽の光とか青空とか風とか空気のように欠かすことなく側に離れずに”在る”ものだから。


ずっと愛されている。


それがホントに”生きる”=”to be”なのかもしれないなぁ。だからすごく遠くて一番近くに”旅立った”だけなんだと思う。


そして、会いたいと思えばいつでも会えるんだ。心の中で。


愛犬あーちゃん!笑

 

これから季節が移り変わっていくにつれて、学校に進学したり、就職したり、人事異動があったり、親元を離れ独り立ちしたり、誰かを見送ったりと、人それぞれ出会いと別れの変化を経験する季節になりますが、そんな時、なんとなく、この曲を色んな人に聴いてもらいたいなぁ~~。


そして、今日もどこかで、誰かが誰かのためにあふれる幸せを祈ってるんだろなぁ~って、ちょこっとだけ想いを馳せてみて欲しい。


今日も誰かのあふれる幸せをただ祈る。

 

「君に幸あれ!」


\(^_^)/

縁は異なもの味なもの

(この文章は2016年11月に書いたものです。)

 

人との出会いほど面白いものはない。

人とのご縁とは本当に不思議。

縁は異なもの味なものとはいうけれど。

(ここでは男女に限らず、全てのご縁、人脈に関して)

本当にそーだなと思う。

 

老若男女、国籍問わず、

色んな人に色んな場所に出会えば出会うほど、その度に、まだ見ぬ新しい自分を発見する。

 

知らない人、知らない土地であればあるほど、新しい人、新しい場所であればあるほど、知らなかった、新しい自分に出会う。

 

だから、きっと、それが楽しくて、どんどん色んな人、色んな場所に、勇気を出して、出会って繋がっていこうとするんだろーな。

 

 もちろん、今までずっと繋がってきた旧知の仲の人たちも、そう。いつも、自分を再発見させてくれる貴重な存在。

 

私を360度で表現したら、

出会う人は、良くも悪くも、ほんのちょっとでも、わたしの360度のどこかの度数と共鳴してくれているということ。たとえ、一期一会だとしても。一人一人、みんな違う度数を担当してくれて、色んな度数の私を垣間見せてくれているんだろね。

 

角度45度の私とか、

角度90度の私とか、

角度180度の私とか。

もっと細かく、角度81度の私とか。

角度359度の私とか、、(以下、延々と続く)

 

そんな中でも、ある時、360度、全方位色んな角度から、特に自分では気づけない角度の私を誰よりも見せてくれる貴重な存在にでくわすことがあるみたい。

 

無色透明な鏡みたいに、嫌になるくらいどんどん己の姿を照らし出して、私が握りしめていた価値観をドンドンぶち壊すキッカケをくれるから、時々、自分ってこんな人だったっけ?と混乱したり。

 

でも、限界ギリギリ掘り起こして見つけるものは、いつも目から鱗だったりするから、宝探ししてるみたい。

 

恥ずかしながら、 暴露すると、

 

自分は、昔からすごく無常感が強くて、あきっぽく、何事につけ、良くも悪くもあきらめがよすぎて(絵を描くこと以外は)、それ故か、オマケにせっかちで、忍耐力がない人間という自覚があるのだけど、

 

どうやら最近は、いつの間にやら、

けっこうあきらめが悪くなって、(良く言うと粘り強くなって)意外としつこい人間に変貌しつつあるみたい(汗)

 

ここまで書いてて、自分でもなんかいやになるな(笑)

ただのドMでスポ根な人じゃん…(T-T)

 

そして、だんだん遠慮がなくなって、

どんどん我が儘になって、
どんどんプライドもなくなって、
どんどん忍耐強くなって、
どんどん行動力が増す自分を、

ちょっと気に入り始めているらしい…(汗)

 

きっと、私の超繊細なガラスのハートを、容赦無くパリンッパリンッと割りまくる存在のせいで、いつの間にか鍛えられたのかもしれないな。

 

(もう自分で言えちゃうようになった時点で、すでに超繊細でもなく、ガラスのハートでもないのがバレてるな)

 

お陰で、私のハートはだんだん耐久ガラスになろうとしている…(汗)

 

そうだな、折角だから、ステンドグラスみたいな綺麗な模様のハートに完成したらいいんだけどなぁ!

 

そんなわけで、誰よりも我が身を成長させてくれる、そんな有難い存在に出くわした自分はラッキーだなと、最近しみじみ思う。

 

人って出会いで変わるもんですな。

 

本当に、いつ、どこで、どんな人にでくわすのかは、予想外だから面白いのかもしれない。

 

そして、色んな出会いがもたらすものがどう結実するのかも、やっぱり自分の範疇を超えて、”神のみぞ知る”なのだろう。

 

ま、それも流れにまかせて楽しんだモン勝ちだな。

 

これからも、いつ、どこで、どんな人とでくわすことやら。

 

縁は異なもの味なもの。

 

これからも、老若男女、国籍問わず、色んなご縁を楽しみたいものだ。