「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

コミュニケーション備忘録

先日、尊敬する方に仕事上のアドバイスをきく貴重な機会をいただいた。

そのどれもが、ごくごく当たり前なことばかりだった。しかしながら、その当たり前のことをできていない人が多いのだという。

それはどんなことかというと、①仕事をしたいと思った人宛てに直接連絡すること。直接会いに行くこと。②手紙やメールをもらったら必ず返信してその後のフォローを欠かさないこと。

 

本当に当たり前のこと。

ネット社会で色んなコミュニケーションツールが発達して便利になった分、その当たり前を疎かにしている人が多いのかもしれない。

 

例えば、この会社と仕事をしたいとメールや手紙を送るよりも、その会社でこの仕事をてがけた○○さんという人だからこそ、一緒に仕事をしてみたいとその○○さんの名前宛にメールや手紙を送ることの方が思いが伝わる。実際にそうやってご縁をつなぎお仕事をしてきたそうだ。大した違いがないようにみえるがこの違いは大きい。しかしながら、それが出来てない人が多いそう。

 

あの人だからこそと思えば、直接その人に伝えるためにあらゆる手段を考えることだろう。そして、そういう思いのある手紙やメールをもらえば、相手もYESにしろNOにしろちゃんと返信すると思う。そうやって、人との信頼関係は構築されていくのだなと思う。

 

恥ずかしながら、コミュニケーションについて、この数年痛い経験をした。

 

直接メールやお手紙を何度も特定の人宛に書いて送っても返事がなく、その返事を聞くために直接本人に会いに行っても結局よくわからないを何度も繰り返し、ハッキリとした返事をもらえたのが年単位越しで、不採用という結果だった。不採用ならばなぜここまで時間をかけひっぱる必要があったのか全く理解できず頭が混乱し、理解するのにとても時間をかけなくてはいけなかったという経験をしたことがあった。

 

思い込みや勘違いをして突っ走ってしまった自分にも責任はあるが、意思を伝えた時点で直ぐ指摘したり不採用を伝える機会は相手にはいくらでもあったはず。

 

人の一生の時間って有限で大切なのだ。

そのことを知っていれば、返事の有無や早さは相手への最低限の思いやりだと思う。人を大切にできるかどうか、人柄や誠実さ、信頼関係が対応の中に全部現れるのだなと、身をもって痛い体験を通じて学んだ。

もちろん、人は完璧じゃない。間違いを犯すこともある。それでも、やっぱり誠実であるかは大切なことだ。

 

相手も自分も尊重できるご縁を大切にしたい。誰と一緒に生きていきたいか。コミュニケーションの基本を改めて確認させてもらうよい機会となった。

 

手痛い経験もまた、勉強になったので今では感謝である。

 

 

 

 

人の為にしない

最近、"自分の為にする"という生き方が大切だなとしみじみ思うようになりました。

 

今までの私は、"人の為にする"ということを骨の髄まで染み込ませて生きてきました。"人の為にする"が良いことだと信じて疑わずに生きてきました。

 

それなのになぜ、それを変えようと思ったかというと、それでは真に自分も相手も幸せにならないと気づいたからです。

 

相手だけが幸せになればいいでも、自分だけが幸せになればいいでもなく、互いに幸せになれるのが本当にいいですよね。

 

誰かの役に立つ。人の為になる。

とても気分が良いことですよね。

自分がしたことがきっかけで誰かが助かったり、救われたり、喜んだりして自分が役に立てるととても嬉しいですよね。

こんな自分でも少しは誰かや何かの役に立てるんだ。必要とされるんだ。

そんな自分は価値がある。

そう思いますよね。

 

誰かを幸せにできたり喜ばせたり、助けることができることは素晴らしいことだと思うし、良いことだと思います。

そして、誰かを助けたい、喜ばせたいと思うこと、思えることは人としてとても健全な精神だと思うし、生きていく上でとても必要な事だと思います。

 

けれど、人はいつもどんな時でも誰かの役に立てるか、誰かを喜ばせられるか、誰かを助けられるかというとそういうわけではありません。どんなにしたくても、時にいろんな理由からできないことも沢山あります。

 

では、そういう時、役に立てない、喜ばせられない、助けられない時の自分は果たして価値がないのでしょうか?

 

そんなことはないと思うのです。

 

人は生まれた時と死ぬ時は必ず誰かの手を借りなければ生きることができないようになっています。(死に関しては事故や自死などは除いて)

誰しもが等しく自分1人ではなにもできない状態を、人生の始めと終わりに必ず体験します。

けれど生まれたばかりの“人の為に何もできない"赤ちゃんは無価値でしょうか?死ぬ間際寝たきりの"人の為になにもできない"老人や病人は無価値でしょうか?

 

ただ存在しているだけで、生きているだけですでに価値があると思うのです。

 

それどころか、生まれたばかりの赤ちゃんは誕生を祝福されるし、死に際の病人や老人はただ息をして心臓の鼓動が少し動いているだけでまだ生きていることに感謝されます。ただ共に存在しているだけで誰かを幸せにしているのです。

 

病気があったり、障害があったり、何もせずにただ家にいたり、何にもしない、できないと価値がないわけではありません。

 

何かの役に立たなければ、誰かのためにならなければ自己価値を感じられないというのは、自分に対して条件をつけていることになります。人の役に立てない自分、人を喜ばせられない自分、ダメな自分、かっこ悪い自分、失敗した自分、何にもできない自分、ボーとゴロゴロしている自分、無益に時を過ごす自分、どんな自分でさえもOKと思えた時に、自分に真に無条件でいられます。

 

自分の価値に条件をつけると人の価値にも条件をつけるようになります。けれど、自分の価値に無条件になれたら、人の価値にも無条件になれます。

 

どんな自分でも許せるようになれたら、どんな相手でも許せるようになります。

 

 

例えば、"人の為に"したことが相手にとって、喜ばしいこととして受け取ってもらえたならば良いけれど、時に、相手から批判されたり、感謝されなかったり、喜ばれなかったり、怒られたり、あっさりその事を忘れさられたり、足りないと要求されたり、文句を言われたり、馬鹿にされたり、酷い言葉を浴びせられることもあるかと思います。

 

そんな時、どうして"相手の為"にしたことなのにこんな目に遭わなくてはいけないのだろうと、とても悲しくなったり、寂しくなったり、虚しくなったり、時に腹を立てたり、絶望して辛くなったり苦しくなったりすることでしょう。

 

"相手の為"に役に立とうとした自分を否定・拒絶されたわけですから。

けれど、"相手の為"になにかできる自分に価値を置くということは、相手からの見返りを求めているということでもあるのです。

自分に条件付けをしているのだから、無意識に相手にも条件付けをしていることになります。

 

だから、自分にとって思いもよらない相手からの態度に納得できずに、無意識に相手を変えたくなったり自分にとって都合の良いようにコントロールしようとしてしまいます。そうでなければ、自分の価値が揺らぐからです。

 

だから、"相手の為"ではなくて"自分の為"に"自分の成長の為"に"自分の喜びの為"に誰かの役に立つこと、誰かを喜ばせること、誰かを助けることが大切になってきます。

 

"自分の成長の為""自分の喜びの為"だと、相手がどんな態度をとったとしても落胆しません。なぜなら初めから見返りを求めないからです。"自分の為"なので責任を自分でとることができるからです。相手の反応で自分の価値を計らなくなるので相手を都合よくコントロールしたくなることもなくなります。相手のせいにもしません。それどころか、"自分の成長の為""自分の喜びの為"に助けたり手伝ったり役に立たせてもらえることに感謝が湧いてくるかもしれません。

 

それは、自分が我慢して相手の全てを許すということではありません。自分に素直であることを許すと相手の素直さを許せるということです。

 

自分の為に自分の喜びの為に行動したことが、結果、誰かの役に立ったり、誰かを喜ばせたのなら真に互いに幸せですよね。

 

"人の為に"から"自分の為に"

他人軸ではなく自分軸。

そうなると楽だなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰か故郷を想わざる/根無し草

(2015年7月に書いたものです)

 

家族 と 故郷

 

それは

 

憧れ と 懐かしさ

 

喜びであり、悲しみ

 

ゆるしであり、あきらめ

 

揺りかごであり、鳥籠

 

墓場であり、砂の城

 

血 と 精神の 記憶 と 共有であり、

 

地 と 肉体の 忘却 と 独占

 

時間 と 空間の 共同創造であり、解体

 

終わりのない

 

感情 と 理性の

 

つなひき と あやとり

 

永遠 と 一瞬の

 

ありがとう と ごめんなさい

 

さようなら と はじめまして

 


住めば故郷

 


出会えば家族

 


あなた

 

 

わたし

 


そして

 


希望

 

 


誰か

 

故郷を

 

想はざる

鏡とボディーペインティング

(*2015年2月に書いた文章です)

 

ここ数日、やたら眠く、ぐったりしてました。。なんでかしら。。やっとブログ更新(T ^ T)

先月、NHKの「地球イチバン~世界一のナチュラルファッション」という番組をみました。

アフリカ、エチオピアのオモ谷に住むムルシ族やスルマ族の人々の”ファッション”についてのドキュメンタリーだったのですが、非常に印象的で、素敵だったので、速攻で写真集をAmazonで購入してしまいました~。

 

*『ナチュラルファッション』DU BOOKS

ムルシ族やスルマ族の人々は、日常的に赤銅色の肌に泥や灰、岩料などでボディーペインティングを施し、様々な自然素材の枝や葉っぱ、花、果物などの植物、貝殻や動物の毛皮、羽などを用いて頭などを飾り立てて暮らしているのですが、その姿がホントにすばらしくカッコよいのです!


配色も組み合わせもバランスも天才的に絶妙なんですよ、これが。なんといっても自分の裸が最高のキャンバスなんですから。そして、みんなが思い思いのファッションの表現を堂々と楽しんでいるのがまたよい。


しかも、ペインティングがものすごく素早い。ためらいなく一気に指をつかって肌に模様を描いていくのです。泥や灰がすぐ乾いてしまうからなんでしょうが、その即興技の中の偶然性、感覚の信頼感とかハンパなく凄いなと。いつも同じ決まったペインティングをするわけじゃないのですから。

しみじみ羨ましい。

特に面白いなと思ったのが、互いにボディペインティングを施しあっている点です。


そもそも鏡という概念がこの人々にはどうやらないっぽいのです。

なぜなら鏡やガラスという人工物が生活空間に存在せず、水辺でわが身を映し見ることもできないので、自分で自分の姿を見る術をもたないということになります。


自分の身体の一部は自分の目でどんな感じにペインティングできているか見ることができるけれど、自分の後ろ姿や顔、全体像などは自分で見ることができません。こんな風にペインティングしたいというイメージは他者の姿を通して養われるのでしょう。けれど、自分の姿を自分で見る術をもたないので、一番自分らしさを象徴する顔や背中は自分で描くことができないのです。

そこで、顔や背中の表現を誰かに委ねるしかないので、他者に代わりにペインティングしてもらうことになるわけですが、これがすごく大切で重要なことのように思えました。

他者が自分の代わりに自分を見つめる”鏡の役割”を果たすことに全信頼を寄せないとできないですものね。しかも肌に直接ペインティングするということは、他者との身体的接触を強烈に伴います。これは、他者に完全に心を開いていなければできないことです。そして、他者の自分への介入をゆるし委ねなければ表現は完結しないのです。一番の自分らしさは最終的には他者が決定している。


うーむ。深い。


結局は他者の存在が自分を自分たらしめている。。”自分”って本当はなんなんでしょうね?
…ぐるぐる(´-`)

しみじみ、ぐるぐるしてみました(笑)


番組の中で、言葉は通じないけれど、親愛の証にムルシ族の女の子がレポーターの日本人の女優さんの手をつないで寄り添ってくれていたのが可愛らしくほんわかしました。

ああ、素敵!

偶然を遊ぶべし!

(*2016年1月に書いた文章です。)

今日は荻窪6次元さんにて、ショートショート作家の田丸雅智さん、ゲームデザイナーの浦川通さん、Daitaiさん4名の講師による『連作ショートショート講座』に参加して遊んできました~。


今講座は参加者みんなで連作にてショートショートを作るという試み。これがものっすごーーーく面白かった!


4人で1つのグループになり、4人がそれぞれ1ページずつ順番に連想ゲームのように物語を書いていき、計8ページの物語を4人で完成させるのですが、

短い時間の中、伝言ゲームのように題名と直前の人の書いたストーリーだけを手掛かりに発想して、続きを書き上げ次々に回していくので、ものすごく想像力と対応力を駆使するのです!


出来上がった物語はまさにカオス…


1人で完成させる物語とは違い、他の人が書いたストーリーから発想しなくてはいけません。しかも、自分では予想のつかなかった、思いつかなかった話になって再び自分の元に戻ってきたり!更には、それを元に最後は自分で物語にオチを作らなくてはならなくなったり。


なので、「こうでなければならない」というのは通用せず、自分が思う「こうあればいいなぁ」という通りにも必ずしもなるわけでもないわけですね(笑)


だから、自分では思いつかなかったような展開になってしまったり、ちょっとしたキッカケでみんなが共鳴し始めて、いつの間にかみんなで物語を一つの方向へとドンドン盛り上げていってしまって最後は大団円となってしまうことも。


そして、ワザと途中で誰かが不協和音を仕向けたり、見兼ねて誰かが上手く軌道修正したり、方向転換を促したり、他の可能性を提案したりと、誰しもが物語の流れを変え決める可能性を持てるのですね。


しかも、2分とか3分で読んで想像して続きを書き上げて回さなくてはいけないので、考え込んでいる時間もなく、如何にその時のファーストインスピレーションや感じた印象で即時に自分の書きたい方向性を決断し物語を作らなくてはいけないのが案外重要で。


(…以上のことは、我々の実生活にあてはまることばかりですけどね(笑))


いやはや、面白かった!


コミュニケーションの無限の可能性とそのバリエーションの豊かさみたいなものを作ったり気づいたりする練習にもなるし、実生活にも即役立つ遊びだなぁ~と思いました~。


いわゆる『セレンディピティー』的な遊びなんじゃないかなぁ~と。

 

*『セレンディピティー』

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探している時に、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たくいうと、ふとした偶然をキッカケに幸運をつかみ取ること。 ~Wikipediaより


ついでに、セレンディピティーに必要なのは、「行動・気づき・受容」だそうです。


まず「行動」し、出会いに「気づく」。そして、出会ったものを「理解」して、最後にはそれを「受容」する。ということだそうですが。


世の中の大きな発明とか便利グッズとか文明の利器などの多くがセレンディピティーによるものだったりしますよね。


失敗によって偶然もたらされた出来事が意外な大発明・大発見につながったりとか。


いつもと違う場所にたまたま行って出会った人を通じてあれよあれよと生き方が変わったりとか。


私のSNS歴は短いですが、まさにSNSセレンディピティーを生かせる代表ツールですよね。確かに去年は食わず嫌いだったSNSを始めてから面白いようにセレンディピティーが起きたように思います(笑)


つい先日、新居に引っ越しした姉一家が、あることがキッカケで犬を飼うことになったのですが、これがよかったみたいですよ。まさにセレンディピティー。


私がウーパールーパーを飼うことになったのも、セレンディピティーで。水中生物なんて飼ったことなかったので、わからないことだらけで色々リスクはありましたが、飼い始めたらまた生活に長閑さが加わり変わりましたし。飼ってよかったですホント(^ ^)


セレンディピティーよ、
ありがとう!(笑)


セレンディピティーを活かす決め手は多分、「やって後悔するかしないか、やらなくて後悔するかしないか」という問いかけなのかもな。


私はやはり「やらないで後悔するかしないか」が基準になると思います(^ ^)


尻込みしたとしても、やらずに後悔だけは勿体なくてやですね。ならばやって失敗したほうがまだマシかなぁとも。


もちろん自分がそのセレンディピティーに気づいた時に「どう感じた」かの自分の感性に、常に敏感であるかが大事な土台になるのでしょうけれど。


だから自分の感性に反して、なんでもかんでも闇雲にやればよいというわけではないのでしょう。。


インターネットで検索エンジンをかける時に「何を」調べるのか、ハッキリと目的を打ち込むように。「何」によって引っかかるものが変わってしまいますしねぇ~。


セレンディピティーは棚ぼたではないということですなぁ。


しみじみ。。


まぁ、自分の頭で考えている理想なんてきっと、たかが知れてますし。自分の頭で想像してたなんかよりも遥かに面白い世界があるならば、是非ともそっちに行きたいなと思うので、これからも偶然をおおいに楽しみながら今年も過ごせたらいいなぁ~とおもいました。

グリーフという表現

先日、母の新盆の法事を執り行った。

 

久々に三姉妹が我が家に揃い、法事後はお供えにそれぞれが持ち寄った手料理を分け合って、のんびりと話をしたり食べたりしながら家族水入らずの1日を過ごした。

 

何気に姉たちと母のことを話しながら、よくよく考えてみると、母の死からまだ一年も経っていないことにハッとした。

 

姉曰く、去年の今頃は母が骨粗鬆症で2度目の入院騒ぎでみんなでとてもバタバタしていたと。

 

それを聞いて、一年前のことさえも忘れてしまう程、母の死の前から今日まであまりにも日々が目一杯だったのだなと自覚させられた。

 

そして、6月に参加したグリーフケアについての講演会で聞いた内容を思い出す。

 

大切な人の死を経験した後にグリーフの症状として、やる気をなくしたり、ものごとを忘れやすくなったり、何かをする時の段取りをつけられなくなったりするそうだ。

 

実のところ、私自身も長期間そういう状態が続いていた。つい最近、自身のケアを最優先させるために離職をする決断に至り、お陰様で休む時間を得て、少しずつゆっくり回復しつつある。

 

人の死後はやる事が多い。

ありとあらゆる手続きと日常が押し寄せて、悲しみに浸るゆとりさえないのが実情だ。家の事、家族の事、職場の事、仕事の事、あらゆる事にがんじがらめにされて、日々は心を置き去りにしていく。

 

けれど、悲しみは日常に掻き消されてなくなったわけではない。表現され解放されるまで心の奥底に沈殿しているだけなのだ。

 

悲しみを素直に表現できない人は、その代わりに何もやる気にならなくなったり、別の形で表現をせざるを得なくなる。気づき解放されるまで。

 

そして、最近腑に落ちた事は、認知症になってしまった母のこと。もしかしたら母にとって、父の死後のグリーフの表現が認知症だったのでは?という気づき。

 

悲しい時に人前で泣くこともなく、怒りたい時に怒ることもなく、辛い時は耐え忍ぶ。母はそんな感情表現を抑えるような昔ながらの慎ましやかな女性だった。

 

今思えば、父の死に際にあっても、周りで泣く娘や孫とは違い、母はおいおいと泣き縋る事もなかった。それどころか、息をひきとる直前に甥っ子とうたた寝をする天然ぶりまで発揮していた。

 

普段から天然な母ゆえにみんなで笑い話にしていたが、しかし、このうたた寝も母ならではの悲しみの回避表現だったのではと今になって思う。

 

父がいなくなってから、急に何もやらなくなってしまい、外出することも億劫になり、耳はますます遠くなり、日中はうたた寝してばかりになり、ついには認知症になってしまった。

 

すべてグリーフの症状に当てはまる。悲しいと言ったり泣いたりできない代わりに、母なりのグリーフの表現を体全体でしていたのかもしれない。

 

人には喜怒哀楽ありとあらゆる感情がある。生きることは感情を感じる事といってもいいほど、人は感情に左右されながら日々生きている。

 

感じられるという事はとても豊かなことだ。そして、その感じたことを素直に表現するという事は、とても大切なことだ。

 

何かを素直に思い、感じてしまう事を我慢したり抑圧してはいけないのだ。

 

例えそれが、悲しみであったり、怒りであったとしても、その感情が発生し感じられるならば、それは"許されている"ということなのだと思う。

 

ポジティブな明るい事、良き事の表現は好まれて許され、ネガティヴな暗い事、悪しき事の表現は嫌がられ許されないと世の中には偏った傾向があったりするが、全ての感情は感じることを許されている。全て。感じてはいけない感情はないということなのだ。

 

喜びも、悲しみも、怒りも、今自分が感じられる全ての感情を素直に感じ切ることの大切さ。

 

そして、全ての感情を感じられることはなんて幸せなことなのだろうと。

 

そんなことにしみじみと思い巡らすお盆だった。

 

 

信じぬく力

(この文章は2018年1月に書いたものです)

遅ればせながら、年始に映画「君の名は」のテレビ放映を見た。社会現象にもなるほどの世界的な大ヒットアニメなだけにずっと気にはなっていたものの、なかなか映画を見ずに今日まで至っていた。放送直前にたまたまツイッターのタイムラインに流れてきたツイートで放映を知り、頭五分くらい欠けたものの、やっと見ることができた。

作品と縁があるタイミングってそんなものである。

 

見た感想。

個人的に響くこと感じること思うことは多々あった。とりあえず、月並みな感想として絵がとても美しくRADWIMPSの音楽がかなり印象的で物語の構成もとても面白い作品だった。方々で物語自体の色んな分析や感想があるだろうから改めて詳しい内容について取り上げて書こうとは思わない。

 

ひとつだけ敢えて取り上げたい私が一番印象に残ったシーンは、彗星落下直前に瀧から三葉に組紐を返すシーン。

 

三葉の身に起こる未来を知っている瀧は、三葉と町のみんなを救いたい一心で三葉の身体に入ってなんとか彗星落下から町を救おうと奔走するが、そのためのキーパーソンである父親を説得することだけは彼女自身じゃなければできないことを思い知る。

 

必死になって彼女を探し、やっと本物の三葉と入れ替わり再会を果たす。その時に瀧は三葉に以前受け取った組紐を返す。

 

そこから、目覚めた本物の三葉が町を救うために町長である父親を説得しに奔走して遂には町を救う。

 

そのくだりを見ていて感じたのは「真心」と「信じぬく力」。

 

三葉の命を救いたい一心であきらめずに行動した瀧。

けれど最後の最後は三葉自身じゃなければ解決できないし、自分が代わりに解決できないことを思い知り、彼女自身の未来の選択を彼女の手に委ねることにする。そして三葉は瀧の想いを受け取り、自分自身で未来を変えるために行動していく。

 

それは、相手を信じ自分を信じぬくということだ。

 

組紐を返す事がそれを象徴している。

相手を信じているからこそ本人に返すのだ。

 

瀧は三葉の"一つの未来"を知っているけれど、実際に未来を選び変えることは三葉本人でなくてはできないし瀧がその先介入することはできないのである。そして、三葉は瀧が託した想いを信じて受け取って、自分の手で未来を選び解決していかなくてはいけない。

 

自分にとってかけがえのない

とても大切な人。

ただ相手に生きていてほしい。

幸せであってほしい。

 

そんな真心と純粋な動機だけで一心に行動する2人の「相手と自分自身を信じ抜く力」そして「選び行動していく意思」がとても胸に響くものがあった。

 

2018年。

 

「どんな風に生きたいですか?

自分の信念はなんですか?」

 

と思春期の2人の男女の主人公が命懸けで純粋に私たちに問いかけた年始の夜。

 

一年の計は元旦にありとはいうが、

そんなことに想いを馳せる、年始に相応しいステキな作品だったなと思う。