「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

偶然を遊ぶべし!

(*2016年1月に書いた文章です。)

今日は荻窪6次元さんにて、ショートショート作家の田丸雅智さん、ゲームデザイナーの浦川通さん、Daitaiさん4名の講師による『連作ショートショート講座』に参加して遊んできました~。


今講座は参加者みんなで連作にてショートショートを作るという試み。これがものっすごーーーく面白かった!


4人で1つのグループになり、4人がそれぞれ1ページずつ順番に連想ゲームのように物語を書いていき、計8ページの物語を4人で完成させるのですが、

短い時間の中、伝言ゲームのように題名と直前の人の書いたストーリーだけを手掛かりに発想して、続きを書き上げ次々に回していくので、ものすごく想像力と対応力を駆使するのです!


出来上がった物語はまさにカオス…


1人で完成させる物語とは違い、他の人が書いたストーリーから発想しなくてはいけません。しかも、自分では予想のつかなかった、思いつかなかった話になって再び自分の元に戻ってきたり!更には、それを元に最後は自分で物語にオチを作らなくてはならなくなったり。


なので、「こうでなければならない」というのは通用せず、自分が思う「こうあればいいなぁ」という通りにも必ずしもなるわけでもないわけですね(笑)


だから、自分では思いつかなかったような展開になってしまったり、ちょっとしたキッカケでみんなが共鳴し始めて、いつの間にかみんなで物語を一つの方向へとドンドン盛り上げていってしまって最後は大団円となってしまうことも。


そして、ワザと途中で誰かが不協和音を仕向けたり、見兼ねて誰かが上手く軌道修正したり、方向転換を促したり、他の可能性を提案したりと、誰しもが物語の流れを変え決める可能性を持てるのですね。


しかも、2分とか3分で読んで想像して続きを書き上げて回さなくてはいけないので、考え込んでいる時間もなく、如何にその時のファーストインスピレーションや感じた印象で即時に自分の書きたい方向性を決断し物語を作らなくてはいけないのが案外重要で。


(…以上のことは、我々の実生活にあてはまることばかりですけどね(笑))


いやはや、面白かった!


コミュニケーションの無限の可能性とそのバリエーションの豊かさみたいなものを作ったり気づいたりする練習にもなるし、実生活にも即役立つ遊びだなぁ~と思いました~。


いわゆる『セレンディピティー』的な遊びなんじゃないかなぁ~と。

 

*『セレンディピティー』

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探している時に、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たくいうと、ふとした偶然をキッカケに幸運をつかみ取ること。 ~Wikipediaより


ついでに、セレンディピティーに必要なのは、「行動・気づき・受容」だそうです。


まず「行動」し、出会いに「気づく」。そして、出会ったものを「理解」して、最後にはそれを「受容」する。ということだそうですが。


世の中の大きな発明とか便利グッズとか文明の利器などの多くがセレンディピティーによるものだったりしますよね。


失敗によって偶然もたらされた出来事が意外な大発明・大発見につながったりとか。


いつもと違う場所にたまたま行って出会った人を通じてあれよあれよと生き方が変わったりとか。


私のSNS歴は短いですが、まさにSNSセレンディピティーを生かせる代表ツールですよね。確かに去年は食わず嫌いだったSNSを始めてから面白いようにセレンディピティーが起きたように思います(笑)


つい先日、新居に引っ越しした姉一家が、あることがキッカケで犬を飼うことになったのですが、これがよかったみたいですよ。まさにセレンディピティー。


私がウーパールーパーを飼うことになったのも、セレンディピティーで。水中生物なんて飼ったことなかったので、わからないことだらけで色々リスクはありましたが、飼い始めたらまた生活に長閑さが加わり変わりましたし。飼ってよかったですホント(^ ^)


セレンディピティーよ、
ありがとう!(笑)


セレンディピティーを活かす決め手は多分、「やって後悔するかしないか、やらなくて後悔するかしないか」という問いかけなのかもな。


私はやはり「やらないで後悔するかしないか」が基準になると思います(^ ^)


尻込みしたとしても、やらずに後悔だけは勿体なくてやですね。ならばやって失敗したほうがまだマシかなぁとも。


もちろん自分がそのセレンディピティーに気づいた時に「どう感じた」かの自分の感性に、常に敏感であるかが大事な土台になるのでしょうけれど。


だから自分の感性に反して、なんでもかんでも闇雲にやればよいというわけではないのでしょう。。


インターネットで検索エンジンをかける時に「何を」調べるのか、ハッキリと目的を打ち込むように。「何」によって引っかかるものが変わってしまいますしねぇ~。


セレンディピティーは棚ぼたではないということですなぁ。


しみじみ。。


まぁ、自分の頭で考えている理想なんてきっと、たかが知れてますし。自分の頭で想像してたなんかよりも遥かに面白い世界があるならば、是非ともそっちに行きたいなと思うので、これからも偶然をおおいに楽しみながら今年も過ごせたらいいなぁ~とおもいました。

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好きなものは好き

♪〜どんな時もどんな時も、僕が僕らしくある〜ために〜すーきーなものはすーきーとー言える気持ち抱きしめてたい♪

 

あんまり書くとじやすらっくに色々言われちゃうからここいらでやめとこ。

 

槇原さんのこの歌大好きなんだよなぁー!すーきーなものはすーきーとー言い続けるからあたし。

 

だって、好きなものは好きなんだから仕方ないじゃん。

 

嫌いになるどころか、どんどん好きになるばかりなんだもん。

 

好きに理由なんかないよ。

好きなもんは好き。以上!

 

誰がなんと言おうが知ったこっちゃないもんね。

 だって、好きなんだから。

好きなものは好き。

それが全て。

 

でも、好きだからっていつもいつも好きだよーって表現できない時もあるよ。好きだから表現しない好きだよーもあるんだよ。

 

無駄遣いしたくないからね!

 

でも、今は言っとくよ。

 

大好きだーーーーーっ!

 

よ。

 

わかったかな?

 

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天国でも地獄でも

貴方は

私を

天国にも地獄にも

連れて逝ってくれる人だな

 

ずっと貴方と天国にいたいけど

貴方と遊ぶことに夢中になってしまって

あんまりにも心地がよくて

楽しくて

色んなこと忘れて

なんにもいらなくなって

堕落してしまいそうになるから

どうしようもなくなって

時々、壊してしまいたくなるよ

 

でも、

貴方がいないと急に不安になって

さみしくなって

まるで地獄みたいな気持ちにもなるよ

 

すごく弱くてヘナチョコだな!

そして、嫌になるほど不器用

 

それなのに、

寝ても醒めても

ここにいない貴方が頭の中一杯にずっと居座ってるから困ってしまっている

寝ても醒めても結局、

いつでも貴方と夢の中

 

どうしたらいいかな?

 

何したって

いつでも貴方と夢の中なら、

 

地獄じゃなくて

いっそ

天国に連れて逝ってくれないかな?

ちゃんと堕落しないようにするから

 

 

まぁ、地獄は地獄で

貴方と一緒なら

結局は楽しんじゃうだろうけどね

 

だって、

貴方となら

天国でも地獄でも

何処だってなんだって

きっと面白くしてしまうだろうから

もう仕方ないわ

 

ホント、どうしたらいいかな?

 

いないのにいるとか、

いるのにいないとか、

 

言葉がきこえても

ちゃんと返事したいのに

表現できないとか、

 

言葉を伝えても

ちゃんと直接返事がきこえないとか、

 

伝えているのに

伝わってないように思えたり、

 

伝わってるのに

それが伝えられなかったり、

 

まるでずっとかくれんぼしてるみたい

 

なんだか貴方も私も
まるでオバケみたいじゃない?

 

貴方も私も身体があって

ちゃんと地に足つけて

ここで生きてるのにね!

 

まぁそれでも、

2012年とか2013年とか

2014年とか2015年の

過去の貴方との会話じゃなくて

2017年の

たった今瞬間の

貴方の言葉が聞けることが、

ただ、嬉しくて嬉しくて

ニヤニヤして

仕方がない

そんな私は

ホントに単純で

すっかりただの女になってしまって

たまに絶望したくなるよ

 

あーあ、ホントに嫌になっちゃうな

 

もう、どうしてくれんのよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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縁は異なもの味なもの

人との出会いほど面白いものはない。

人とのご縁とは本当に不思議。

縁は異なもの味なものとはいうけれど。

(ここでは男女に限らず、全てのご縁、人脈に関して)

本当にそーだなと思う。

 

老若男女、国籍問わず、

色んな人に色んな場所に出会えば出会うほど、その度に、まだ見ぬ新しい自分を発見する。

 

知らない人、知らない土地であればあるほど、新しい人、新しい場所であればあるほど、知らなかった、新しい自分に出会う。

 

だから、きっと、それが楽しくて、どんどん色んな人、色んな場所に、勇気を出して、出会って繋がっていこうとするんだろーな。

 

 もちろん、今までずっと繋がってきた旧知の仲の人たちも、そう。いつも、自分を再発見させてくれる貴重な存在。

 

私を360度で表現したら、

出会う人は、良くも悪くも、ほんのちょっとでも、わたしの360度のどこかの度数と共鳴してくれているということ。たとえ、一期一会だとしても。一人一人、みんな違う度数を担当してくれて、色んな度数の私を垣間見せてくれているんだろね。

 

角度45度の私とか、

角度90度の私とか、

角度180度の私とか。

もっと細かく、角度81度の私とか。

角度359度の私とか、、(以下、延々と続く)

 

そんな中でも、ある時、360度、全方位色んな角度から、特に自分では気づけない角度の私を誰よりも見せてくれる貴重な存在にでくわすことがあるみたい。

 

無色透明な鏡みたいに、嫌になるくらいどんどん己の姿を照らし出して、私が握りしめていた価値観をドンドンぶち壊すキッカケをくれるから、時々、自分ってこんな人だったっけ?と混乱したり。

 

でも、限界ギリギリ掘り起こして見つけるものは、いつも目から鱗だったりするから、宝探ししてるみたい。

 

恥ずかしながら、 暴露すると、

 

自分は、昔からすごく無常感が強くて、あきっぽく、何事につけ、良くも悪くもあきらめがよすぎて(絵を描くこと以外は)、それ故か、オマケにせっかちで、忍耐力がない人間という自覚があるのだけど、

 

どうやら最近は、いつの間にやら、

けっこうあきらめが悪くなって、(良く言うと粘り強くなって)意外としつこい人間に変貌しつつあるみたい(汗)

 

ここまで書いてて、自分でもなんかいやになるな(笑)

ただのドMでスポ根な人じゃん…(T-T)

 

そして、だんだん遠慮がなくなって、

どんどん我が儘になって、
どんどんプライドもなくなって、
どんどん忍耐強くなって、
どんどん行動力が増す自分を、

ちょっと気に入り始めているらしい…(汗)

 

きっと、私の超繊細なガラスのハートを、容赦無くパリンッパリンッと割りまくる存在のせいで、いつの間にか鍛えられたのかもしれないな。

 

(もう自分で言えちゃうようになった時点で、すでに超繊細でもなく、ガラスのハートでもないのがバレてるな)

 

お陰で、私のハートはだんだん耐久ガラスになろうとしている…(汗)

 

そうだな、折角だから、ステンドグラスみたいな綺麗な模様のハートに完成したらいいんだけどなぁ!

 

そんなわけで、誰よりも我が身を成長させてくれる、そんな有難い存在に出くわした自分はラッキーだなと、最近しみじみ思う。

 

人って出会いで変わるもんですな。

 

本当に、いつ、どこで、どんな人にでくわすのかは、予想外だから面白いのかもしれない。

 

そして、色んな出会いがもたらすものがどう結実するのかも、やっぱり自分の範疇を超えて、”神のみぞ知る”なのだろう。

 

ま、それも流れにまかせて楽しんだモン勝ちだな。

 

これからも、いつ、どこで、どんな人とでくわすことやら。

 

縁は異なもの味なもの。

 

これからも、老若男女、国籍問わず、色んなご縁を楽しみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その4 弱さという強さ②

私は長年、生まれながらの虚弱体質から脱却すべく、今まで色んな方法で体質改善を自分なりに試してきました。

 

けれど最近になって、本当は「方法」よりも「在り方」の方が大事なんじゃないかなと、思うように至りました。

 

今までの私は、確かに、身体に良さそうな色んな方法や手段を沢山試してきた甲斐もあって、以前よりも身体が強くなったし、そう実感もしています。

 

けれど、本当に心身の健やかさを実感できているかと自問してみたら、どうもそうは感じられないのです。これだけ色々やってきているのにも関わらず、なぜなのだろう?根本的な何かが、どうも違うのだよなぁ…という感覚がいつまでもつきまとっていました。

 

そして、つい最近になって、一番根本的な問いにようやく突き当たりました。

 

「そもそも私は、自分の身体を愛しているだろうか?」と。

 

私は病気がちで自分の思い通りになかなかならない身体をいつも無理矢理力ずくで動かしてきたのではないだろうか?思い通りにならない身体を好きになれず、今までずっと嫌ってきたのかもしれない…と思いました。

 

弱い身体を好きになれず、必死に別の強い身体になろうとしてきたのかもしれないと。

 

そんな私だから、自分の身体を労ろう、大切に扱おう、身体の喜ぶことをしようという発想になるはずもなく、身体を如何にして自分の思い通りの健康的な状態にコントロールできるか、いうことをきくようにするかと、そんな風に身体に接してきたのかもしれません。

 

本当に女子らしからぬ身体の扱い方ですよね。。(汗)

 

いくら一時的に健康であったとしても、常日頃、身体を愛し大切にできていなければ、身体は健康を保てるはずもありません。美しく咲いた花でさえ、世話をせず愛でずに無視し続ければすぐ枯れてしまうのと同じです。

 

この歳になってようやくそんな当たり前のことに、やっと気がついたのです…(汗)

 

そう気づいたら、急に私は身体さんに申し訳ない気持ちで一杯になりました。

今までどれだけ身体さんは私のために健気に頑張ってきてくれただろう…

 

身体さん、ごめんね…

 

今からでも遅くはない!身体さんとちゃんと対話して好きになりたい…

 

そんな訳で、改めて昨年秋頃から意識的に自分の身体を労わり、丁寧に向き合うことを心掛けることを少しずつ始めたのでした。

 

それは本当になんてこともないことで。

 

お風呂にゆっくり入ったり、丁寧にオイルマッサージをしたり、時々ヨガをしたり、散歩したり、身体によい美味しいものを食べたり、着たいなと思った服を着てオシャレを楽しんだり、美容室でヘッドスパしてもらったり、夜寝る時にアロマオイルの香りで癒されたり、疲れたら無理をせず、温かくして、よく休んだり眠ったり、、、

 

身体の声に耳をかたむけ、身体を可愛がるように大切に扱い、身体が心地よいと感じ喜ぶことを思いつく限り色々楽しんでやってみました。

 

おお!なんて女子な生活!(爆)

 

意識的にそんなことを始めてみると、如何に自分は今までそんなことさえもちゃんとしてこなかったのか、、、

しみじみ気づかされたものです。

とほほ。

 

そして、そんな生活を意識的に始めてから約半年。この春にビックリするような変化が身体に現れたのです。

 

なんと、突然の皮膚疾患を発症したのです!

 

え?丁寧に大切にしてきたのに病気になっちゃったの?全然だめじゃない?って思われたかもしれません。

 

けれど、私は皮膚疾患が現れたことを密かにチャンスかもしれない思っていました。そして、私の身体さんに感謝していました。

 

なぜかというと、その時私は、身体の”大掃除・デトックス”ができる大きなチャンスがやってきたと思ったからです。

 

 

その5に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その3 弱さという強さ①

私には長い間、身体的劣等感があったように思います。

 

それは外見的なものというより、「元々もつ身体の力が弱い」という劣等感。

 

元々私は小児喘息持ちで、季節の変わり目などには必ず風邪をひき、その度に喘息の発作を起こし、いつも学校を休みがちな虚弱体質な子供でした。

 

一度発作が起こると、生きた心地がしません。まともに呼吸ができなくなるのです。いつもこのまま呼吸ができなくなって死んでしまうのではないかと思いながら、何も出来ず布団の中で小さくうずくまり、うつ伏せになりながら背中でなんとか必死に呼吸をして、ただただ早く発作が過ぎ去ってくれないかと、朦朧とやり過ごすことしか出来なくなるのです。

 

なので、発作が起こるとすぐ緊急で病院に連れて行かれ、いつも吸入器のお世話になりました。吸入器をかけた後は、あの発作がまるで嘘のように呼吸がスムーズにできるようになるのです。

 

私にとって、吸入器はまるで魔法のようなものでした。

 

そんな訳で私は、頻繁に病院に通っては大量のお薬に頼るということが当たり前の子供時代を過ごしてきました。

 

そして、段々と成長するにつれて体力もつき、女子なので思春期頃には月のものも始まり、身体の自然な変化に伴っていつの間にか小児喘息の発作が起こることもなくなりました。

 

喘息が起こらなくなり、長年の病院通いやお薬を飲むことから解放されたことは私にとってとても大きなことでした。それ以来私は、子供時代の反動もあってか、病院通いもお薬に頼ることも殆どしなくなりました。

 

というのも、子供の頃、体調を崩す度に処方される大量のお薬を飲むことが毎回すごく苦痛で、嫌気がさしていたことと、子供ながらに、なんでこんなにお薬は不味いのか、そして、なんでこれほどまでに大量のお薬を飲んでいるにもかかわらず、一時的に治ってもまた度々病気になるのか、病気が完治しないのか素朴に疑問だったのです。そして、薬に依存し続けたくなかったのです。

 

小児喘息は自然と治ったとはいえ、その後は身体の別の不定愁訴に度々見舞われるようになりました。その度に、あいも変わらず「私って身体がホント弱いなぁ…なんでこんなに身体が弱いんだろ…ホントに健康体になりたい…」と自分の生まれ持った虚弱体質を憂い悩みながら、ずっと自分の弱い身体に向き合わざるをえない日々を過ごしてきました。

 

そして、いつも何かある度に「身体さえもっと強ければ○○出来たのではないか?とだけは思いたくはないなぁ…いつも身体の不調を精神力でカバーし続けるにも限界があるよなぁ…」とも心の何処かで思っていたので、私にとって「如何にして心からの健康体を保つか」ということは、生きていく上で長年の重要なテーマになっていました。

 

 どんなに無視しても、忘れたフリしても身体があらゆる症状をもってして「自分の身体」「健康」というものを嫌でも意識させてくるのです。

 

そして、当たり前のことなのですが、何事につけ、根本に身体がなければ、この世では、為すことも成せないのですよね。精神力だけでは…

地に足をつけて生きるには心の乗り物である身体を健康に保つことはホントに重要なことだなとつくづく思います。

 

そんな訳で私は、根本的な体質改善をすべく、自分なりにできそうな興味が沸いたことを色々試してきました。食事、運動、ヨガ、断食、、、、

 

どれもそれなりに自分に合っていて効果もあるし、役立つなと思うものがたくさんありました。劇的に根本体質が変わったかというとまだ道半ばかなぁと思いますが、少しずつ、でも確実に私に変化をもたらしてくれてきたように思います。

 

 

その4に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和歌のような音律の歌

 


昨日は綺麗な満月を眺めるコトができました。

少し湿り気を帯びた柔らかな優しい光をたたえたしっとりとした月明かりに感じられました。


お月様といえば、『竹取物語


TVでも放映されてましたが、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を思い浮かべます。


スケッチやクロッキーのような手描きの線のタッチと、水墨画を思わせるような余白を活かした淡い背景。徹底的に手描き感にこだわった素朴な絵で構成された表現方法が、この物語の世界観にピッタリ。


高畑監督はあえて、物語を見る側それぞれの想像力に委ねるために、リアルに描き込み過ぎずに、手描きの線の世界観に拘られたようです。


そして、「木を植えた男」などの作品で有名なカナダのアニメーション作家のフレデリック・バックさん(2013年12月24日没)にとても影響を受けていらっしゃるそう。


フレデリック・バックさんのような手描き感の作品を作りたかったと。


そして、完成した『かぐや姫の物語』を病床のフレデリックさんに見ていただきたいと自宅を1人訪ねられ、一緒に最後までソワァーにくつろぎ手を握りしめながら作品を見られて、数日後にフレデリックさんが亡くなられたという。


以前にTV番組の中で知りました。


誰かへの尊敬と憧れが原動力になり、そうして全身全霊で作り上げた作品が更に誰かの胸に憧れと尊敬の波を起こし新しい原動力となり続ける。


肉体の死を迎えたとしても、精神は誰かに引き継がれて延々と形を変えて生き続けるのだなぁと、このお二人の素敵な交流をみながら、しみじみと感動したのを覚えています。


いいですね。


さて、『かぐや姫の物語』。


私が印象深く感じたのは、劇中で多用された「わらべ歌」と「天女の歌」。


♪~ 鳥・虫・けもの・草・木・花

春夏秋冬連れてこい
春夏秋冬連れてこい

(一部引用しました)


高畑監督が作詞作曲されているそう。


子どもたちが口ずさむ歌詞とメロディーが暖かく牧歌的なかんじで素朴な響きをともなって耳に残ります。ステキな歌ですよね。


でも、印象深いのはやはり「天女のうた」


かぐや姫がふと、憶い出すように口ずさむあの音律が、同じメロディーラインと詩を元にしている「わらべ歌」とは明らかに響き方が違います。


私は音楽に詳しくはありませんが、日本的なあの独特の音律。


ちなみに私は、お三味線で長唄とかにも憧れます。都々逸とか。好きです。雅楽の響きとかも大好きだし、義太夫節なんかも好きです。


遡れば、あの日本的な音律は和歌の披講にいきつくのかしら?


なんとも言えないくらい、胸の奥がギュッとなって、あの歌だけで泣けるんですもの。なぜか。


不思議ですよね。


簡潔な言葉と音の深み。


和歌のようなあの歌には、喜怒哀楽が凝縮されてつまってて、ちょっとした拍子にこちらの感情を溢れださせてしまう不思議な作用を感じました。

 


「天女の歌」


まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ

めぐって 心を 呼びかえせ

めぐって 心を 呼びかえせ

鳥 虫 けもの 草 木 花

人の情けを はぐくみて

まつとしきかば 今かへりこむ