「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

鏡とボディーペインティング

(*2015年2月に書いた文章です)

 

ここ数日、やたら眠く、ぐったりしてました。。なんでかしら。。やっとブログ更新(T ^ T)

先月、NHKの「地球イチバン~世界一のナチュラルファッション」という番組をみました。

アフリカ、エチオピアのオモ谷に住むムルシ族やスルマ族の人々の”ファッション”についてのドキュメンタリーだったのですが、非常に印象的で、素敵だったので、速攻で写真集をAmazonで購入してしまいました~。

 

*『ナチュラルファッション』DU BOOKS

ムルシ族やスルマ族の人々は、日常的に赤銅色の肌に泥や灰、岩料などでボディーペインティングを施し、様々な自然素材の枝や葉っぱ、花、果物などの植物、貝殻や動物の毛皮、羽などを用いて頭などを飾り立てて暮らしているのですが、その姿がホントにすばらしくカッコよいのです!


配色も組み合わせもバランスも天才的に絶妙なんですよ、これが。なんといっても自分の裸が最高のキャンバスなんですから。そして、みんなが思い思いのファッションの表現を堂々と楽しんでいるのがまたよい。


しかも、ペインティングがものすごく素早い。ためらいなく一気に指をつかって肌に模様を描いていくのです。泥や灰がすぐ乾いてしまうからなんでしょうが、その即興技の中の偶然性、感覚の信頼感とかハンパなく凄いなと。いつも同じ決まったペインティングをするわけじゃないのですから。

しみじみ羨ましい。

特に面白いなと思ったのが、互いにボディペインティングを施しあっている点です。


そもそも鏡という概念がこの人々にはどうやらないっぽいのです。

なぜなら鏡やガラスという人工物が生活空間に存在せず、水辺でわが身を映し見ることもできないので、自分で自分の姿を見る術をもたないということになります。


自分の身体の一部は自分の目でどんな感じにペインティングできているか見ることができるけれど、自分の後ろ姿や顔、全体像などは自分で見ることができません。こんな風にペインティングしたいというイメージは他者の姿を通して養われるのでしょう。けれど、自分の姿を自分で見る術をもたないので、一番自分らしさを象徴する顔や背中は自分で描くことができないのです。

そこで、顔や背中の表現を誰かに委ねるしかないので、他者に代わりにペインティングしてもらうことになるわけですが、これがすごく大切で重要なことのように思えました。

他者が自分の代わりに自分を見つめる”鏡の役割”を果たすことに全信頼を寄せないとできないですものね。しかも肌に直接ペインティングするということは、他者との身体的接触を強烈に伴います。これは、他者に完全に心を開いていなければできないことです。そして、他者の自分への介入をゆるし委ねなければ表現は完結しないのです。一番の自分らしさは最終的には他者が決定している。


うーむ。深い。


結局は他者の存在が自分を自分たらしめている。。”自分”って本当はなんなんでしょうね?
…ぐるぐる(´-`)

しみじみ、ぐるぐるしてみました(笑)


番組の中で、言葉は通じないけれど、親愛の証にムルシ族の女の子がレポーターの日本人の女優さんの手をつないで寄り添ってくれていたのが可愛らしくほんわかしました。

ああ、素敵!

偶然を遊ぶべし!

(*2016年1月に書いた文章です。)

今日は荻窪6次元さんにて、ショートショート作家の田丸雅智さん、ゲームデザイナーの浦川通さん、Daitaiさん4名の講師による『連作ショートショート講座』に参加して遊んできました~。


今講座は参加者みんなで連作にてショートショートを作るという試み。これがものっすごーーーく面白かった!


4人で1つのグループになり、4人がそれぞれ1ページずつ順番に連想ゲームのように物語を書いていき、計8ページの物語を4人で完成させるのですが、

短い時間の中、伝言ゲームのように題名と直前の人の書いたストーリーだけを手掛かりに発想して、続きを書き上げ次々に回していくので、ものすごく想像力と対応力を駆使するのです!


出来上がった物語はまさにカオス…


1人で完成させる物語とは違い、他の人が書いたストーリーから発想しなくてはいけません。しかも、自分では予想のつかなかった、思いつかなかった話になって再び自分の元に戻ってきたり!更には、それを元に最後は自分で物語にオチを作らなくてはならなくなったり。


なので、「こうでなければならない」というのは通用せず、自分が思う「こうあればいいなぁ」という通りにも必ずしもなるわけでもないわけですね(笑)


だから、自分では思いつかなかったような展開になってしまったり、ちょっとしたキッカケでみんなが共鳴し始めて、いつの間にかみんなで物語を一つの方向へとドンドン盛り上げていってしまって最後は大団円となってしまうことも。


そして、ワザと途中で誰かが不協和音を仕向けたり、見兼ねて誰かが上手く軌道修正したり、方向転換を促したり、他の可能性を提案したりと、誰しもが物語の流れを変え決める可能性を持てるのですね。


しかも、2分とか3分で読んで想像して続きを書き上げて回さなくてはいけないので、考え込んでいる時間もなく、如何にその時のファーストインスピレーションや感じた印象で即時に自分の書きたい方向性を決断し物語を作らなくてはいけないのが案外重要で。


(…以上のことは、我々の実生活にあてはまることばかりですけどね(笑))


いやはや、面白かった!


コミュニケーションの無限の可能性とそのバリエーションの豊かさみたいなものを作ったり気づいたりする練習にもなるし、実生活にも即役立つ遊びだなぁ~と思いました~。


いわゆる『セレンディピティー』的な遊びなんじゃないかなぁ~と。

 

*『セレンディピティー』

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探している時に、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たくいうと、ふとした偶然をキッカケに幸運をつかみ取ること。 ~Wikipediaより


ついでに、セレンディピティーに必要なのは、「行動・気づき・受容」だそうです。


まず「行動」し、出会いに「気づく」。そして、出会ったものを「理解」して、最後にはそれを「受容」する。ということだそうですが。


世の中の大きな発明とか便利グッズとか文明の利器などの多くがセレンディピティーによるものだったりしますよね。


失敗によって偶然もたらされた出来事が意外な大発明・大発見につながったりとか。


いつもと違う場所にたまたま行って出会った人を通じてあれよあれよと生き方が変わったりとか。


私のSNS歴は短いですが、まさにSNSセレンディピティーを生かせる代表ツールですよね。確かに去年は食わず嫌いだったSNSを始めてから面白いようにセレンディピティーが起きたように思います(笑)


つい先日、新居に引っ越しした姉一家が、あることがキッカケで犬を飼うことになったのですが、これがよかったみたいですよ。まさにセレンディピティー。


私がウーパールーパーを飼うことになったのも、セレンディピティーで。水中生物なんて飼ったことなかったので、わからないことだらけで色々リスクはありましたが、飼い始めたらまた生活に長閑さが加わり変わりましたし。飼ってよかったですホント(^ ^)


セレンディピティーよ、
ありがとう!(笑)


セレンディピティーを活かす決め手は多分、「やって後悔するかしないか、やらなくて後悔するかしないか」という問いかけなのかもな。


私はやはり「やらないで後悔するかしないか」が基準になると思います(^ ^)


尻込みしたとしても、やらずに後悔だけは勿体なくてやですね。ならばやって失敗したほうがまだマシかなぁとも。


もちろん自分がそのセレンディピティーに気づいた時に「どう感じた」かの自分の感性に、常に敏感であるかが大事な土台になるのでしょうけれど。


だから自分の感性に反して、なんでもかんでも闇雲にやればよいというわけではないのでしょう。。


インターネットで検索エンジンをかける時に「何を」調べるのか、ハッキリと目的を打ち込むように。「何」によって引っかかるものが変わってしまいますしねぇ~。


セレンディピティーは棚ぼたではないということですなぁ。


しみじみ。。


まぁ、自分の頭で考えている理想なんてきっと、たかが知れてますし。自分の頭で想像してたなんかよりも遥かに面白い世界があるならば、是非ともそっちに行きたいなと思うので、これからも偶然をおおいに楽しみながら今年も過ごせたらいいなぁ~とおもいました。

グリーフという表現

先日、母の新盆の法事を執り行った。

 

久々に三姉妹が我が家に揃い、法事後はお供えにそれぞれが持ち寄った手料理を分け合って、のんびりと話をしたり食べたりしながら家族水入らずの1日を過ごした。

 

何気に姉たちと母のことを話しながら、よくよく考えてみると、母の死からまだ一年も経っていないことにハッとした。

 

姉曰く、去年の今頃は母が骨粗鬆症で2度目の入院騒ぎでみんなでとてもバタバタしていたと。

 

それを聞いて、一年前のことさえも忘れてしまう程、母の死の前から今日まであまりにも日々が目一杯だったのだなと自覚させられた。

 

そして、6月に参加したグリーフケアについての講演会で聞いた内容を思い出す。

 

大切な人の死を経験した後にグリーフの症状として、やる気をなくしたり、ものごとを忘れやすくなったり、何かをする時の段取りをつけられなくなったりするそうだ。

 

実のところ、私自身も長期間そういう状態が続いていた。つい最近、自身のケアを最優先させるために離職をする決断に至り、お陰様で休む時間を得て、少しずつゆっくり回復しつつある。

 

人の死後はやる事が多い。

ありとあらゆる手続きと日常が押し寄せて、悲しみに浸るゆとりさえないのが実情だ。家の事、家族の事、職場の事、仕事の事、あらゆる事にがんじがらめにされて、日々は心を置き去りにしていく。

 

けれど、悲しみは日常に掻き消されてなくなったわけではない。表現され解放されるまで心の奥底に沈殿しているだけなのだ。

 

悲しみを素直に表現できない人は、その代わりに何もやる気にならなくなったり、別の形で表現をせざるを得なくなる。気づき解放されるまで。

 

そして、最近腑に落ちた事は、認知症になってしまった母のこと。もしかしたら母にとって、父の死後のグリーフの表現が認知症だったのでは?という気づき。

 

悲しい時に人前で泣くこともなく、怒りたい時に怒ることもなく、辛い時は耐え忍ぶ。母はそんな感情表現を抑えるような昔ながらの慎ましやかな女性だった。

 

今思えば、父の死に際にあっても、周りで泣く娘や孫とは違い、母はおいおいと泣き縋る事もなかった。それどころか、息をひきとる直前に甥っ子とうたた寝をする天然ぶりまで発揮していた。

 

普段から天然な母ゆえにみんなで笑い話にしていたが、しかし、このうたた寝も母ならではの悲しみの回避表現だったのではと今になって思う。

 

父がいなくなってから、急に何もやらなくなってしまい、外出することも億劫になり、耳はますます遠くなり、日中はうたた寝してばかりになり、ついには認知症になってしまった。

 

すべてグリーフの症状に当てはまる。悲しいと言ったり泣いたりできない代わりに、母なりのグリーフの表現を体全体でしていたのかもしれない。

 

人には喜怒哀楽ありとあらゆる感情がある。生きることは感情を感じる事といってもいいほど、人は感情に左右されながら日々生きている。

 

感じられるという事はとても豊かなことだ。そして、その感じたことを素直に表現するという事は、とても大切なことだ。

 

何かを素直に思い、感じてしまう事を我慢したり抑圧してはいけないのだ。

 

例えそれが、悲しみであったり、怒りであったとしても、その感情が発生し感じられるならば、それは"許されている"ということなのだと思う。

 

ポジティブな明るい事、良き事の表現は好まれて許され、ネガティヴな暗い事、悪しき事の表現は嫌がられ許されないと世の中には偏った傾向があったりするが、全ての感情は感じることを許されている。全て。感じてはいけない感情はないということなのだ。

 

喜びも、悲しみも、怒りも、今自分が感じられる全ての感情を素直に感じ切ることの大切さ。

 

そして、全ての感情を感じられることはなんて幸せなことなのだろうと。

 

そんなことにしみじみと思い巡らすお盆だった。

 

 

信じぬく力

(この文章は2018年1月に書いたものです)

遅ればせながら、年始に映画「君の名は」のテレビ放映を見た。社会現象にもなるほどの世界的な大ヒットアニメなだけにずっと気にはなっていたものの、なかなか映画を見ずに今日まで至っていた。放送直前にたまたまツイッターのタイムラインに流れてきたツイートで放映を知り、頭五分くらい欠けたものの、やっと見ることができた。

作品と縁があるタイミングってそんなものである。

 

見た感想。

個人的に響くこと感じること思うことは多々あった。とりあえず、月並みな感想として絵がとても美しくRADWIMPSの音楽がかなり印象的で物語の構成もとても面白い作品だった。方々で物語自体の色んな分析や感想があるだろうから改めて詳しい内容について取り上げて書こうとは思わない。

 

ひとつだけ敢えて取り上げたい私が一番印象に残ったシーンは、彗星落下直前に瀧から三葉に組紐を返すシーン。

 

三葉の身に起こる未来を知っている瀧は、三葉と町のみんなを救いたい一心で三葉の身体に入ってなんとか彗星落下から町を救おうと奔走するが、そのためのキーパーソンである父親を説得することだけは彼女自身じゃなければできないことを思い知る。

 

必死になって彼女を探し、やっと本物の三葉と入れ替わり再会を果たす。その時に瀧は三葉に以前受け取った組紐を返す。

 

そこから、目覚めた本物の三葉が町を救うために町長である父親を説得しに奔走して遂には町を救う。

 

そのくだりを見ていて感じたのは「真心」と「信じぬく力」。

 

三葉の命を救いたい一心であきらめずに行動した瀧。

けれど最後の最後は三葉自身じゃなければ解決できないし、自分が代わりに解決できないことを思い知り、彼女自身の未来の選択を彼女の手に委ねることにする。そして三葉は瀧の想いを受け取り、自分自身で未来を変えるために行動していく。

 

それは、相手を信じ自分を信じぬくということだ。

 

組紐を返す事がそれを象徴している。

相手を信じているからこそ本人に返すのだ。

 

瀧は三葉の"一つの未来"を知っているけれど、実際に未来を選び変えることは三葉本人でなくてはできないし瀧がその先介入することはできないのである。そして、三葉は瀧が託した想いを信じて受け取って、自分の手で未来を選び解決していかなくてはいけない。

 

自分にとってかけがえのない

とても大切な人。

ただ相手に生きていてほしい。

幸せであってほしい。

 

そんな真心と純粋な動機だけで一心に行動する2人の「相手と自分自身を信じ抜く力」そして「選び行動していく意思」がとても胸に響くものがあった。

 

2018年。

 

「どんな風に生きたいですか?

自分の信念はなんですか?」

 

と思春期の2人の男女の主人公が命懸けで純粋に私たちに問いかけた年始の夜。

 

一年の計は元旦にありとはいうが、

そんなことに想いを馳せる、年始に相応しいステキな作品だったなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

胸を貸したり借りたり

(この文章は2016年1月に書いたものです。)

 

今日は成人の日ですね~。


成人式を迎えられる20歳のみなさん、御目出度うございます!


そんなわけで自分の成人の日を思い出しながら、成人って何だろうと想いを馳せてみよう。


そうそう、自分の成人式は関東地方に稀に見る大雪が降った年でした!なので、成人式には参加せず、一日中雪掻きしてましたね…(ーー;)


お着物汚しちゃうし。って、実のところはその着物さえ買っても借りてもいなかったんですけど(笑)


雪が降っても降らなくても、私は最初から式に参加する気がなかったんです。


…ナゼかというと、、、


その頃の私は、学生でも正社員でもなく世間でフリーターと呼ばれる立場に身をおきながら絵を描いていて、まだ何者にもなれていない自分に言い様のないコンプレックスだらけで、学生生活を謳歌しているであろう同窓生たちの中に混じって、

「今どうしてるの~?元気だった~?着物かわいい~!」

などと無邪気に進捗状況を語り合う気になど全然なれなかった(汗)


それに、あの頃の私には、何をもって成人なのか、年齢だけで形だけの成人式に参加する意義や意味が単純に全然わからなかったのでした。。


目の前の生活を滞りなく営むため、雪掻きをすることの方がずっと重要で…
(ーー;)


そして現実は、職場で10も20も30も親程に歳の離れた「成人の大先輩達」に囲まれ働く日々の中、いつも「成人の先輩」達がつきつけてくる理不尽さに怒りばかりを感じながら、ひたすら悶々としていたのでした(笑)


そう、大人にもなりきれず子供にももどれない、何者にもなりきれない中途半端な自分の説得力の無さを日々突きつけられて、それでもいつも対等に立ち向かおうと精一杯背伸びをして、ずっとツンツンしてたなぁ。。


ははは~(^_^;)


あ、ちなみに、そんな理不尽さを日々私に教えこんでくださった「成人の大先輩」の上司を思い出したのがきっかけで書いたのが、昨年の「ショートショート豆本作ってきました~④」のサンタさんの話なのです~。


私が19歳~働いていた医療系の職場の上司のそのオッさんは、髪の毛が真っ白だけど名前は「黒○」さん。


若い頃は俳優志望だった事をいつも車で現場の移動中に聞かされ続け、毎年クリスマスが近づくと「クリスマスは苦しみます」という訳のわからない駄洒落を言い放ち、チームの責任者であるにも関わらず、仕事のミスをいつも下っ端の私に押し付ける無責任な人だった(笑)


その頃は、そのオッさんが心の底から大っ嫌いで。


だから私は悔しくて、その職場で嘱託社員になって、数年後絵の仕事を本格的に専念するために辞めてと猛烈に働くことができたのですが(爆)


そして、辞めてから数年後「黒○」さんの退職祝いに呼ばれて久々にお会いした時の事。

久しぶりに会ったにも関わらず、ツンツン生意気だった元部下の私の顔をみて喜んでくださり、その後お酒を飲み交わしながら、しみじみと「黒○」さんが、成人して働き始めた娘さんの事やご家族の事を、顔をほころばせながら嬉しそうに話す姿をみた時に、、、


大っ嫌いが大好きに、そして尊敬に変わっちゃった(笑)


不思議なんですけどね。


それと同時に、「俳優の夢をあきらめたくせに、仕事は無責任だった」なんて、なにも知らずに軽蔑していた若かりし頃の自分が恥ずかしくなったといいますか。。


「黒○」さんなりの「責任」を果たした大先輩の姿しかそこにはなく。


上司のいいとこもやなとこも全部、やっと私なりに咀嚼できたその瞬間、
「あ、今私ちょっとだけ大人になれたかな?」と思ったものです。


思い返すと、未熟な私は今までたくさんの「成人の先輩達」に胸をお借りしてきたなぁと。


その貴重な機会をなんども失敗して潰すこともありましたし、活かしきれず愕然とすることもありました。。


にも関わらず、何度も信頼してチャンスを与えてくださいました。胸を貸す方にもすごくリスクがあるのに。


今でもそれは変わらず。
本当にしみじみ、ありがたいことです。


逆に、何度も胸を貸しては一緒に泡食ってなんてことをしながら、(泡食ってないフリをしているが内実は超オロオロしてたり)胸を貸すことで成長させてもらったりね。


だから、成人式を過ぎた今の私的には、「成人の日」とはそんな風に胸を貸してくださったり胸を貸させてくれた、たくさんの方に改めて感謝して「自分の道を確認する日」としたいなぁ。


人は何歳になっても不完全で、その度に互いに胸を借りたり貸したりしつつ、それぞれの通過儀礼を通りながら、自分なりに「大人」を生きていこうとするものなのかもしれない。


去年よりはもうちょっと、気持ちよく胸を貸せる人に今年はなれたらいーなー!

三角の不思議

三角型というのは不思議な形である。

力学的に絶妙なバランスを保つ。

 

人間関係の中にも三角型はよくみられる。初めは一対一の関係から出発し、いつのまにやら三角型に発展するのがほとんどだ。

 

一対一という二極の軸は力学が崩れると逃げ場がない。

真向かいだから、互いへの力がダイレクトすぎるのである。仮にその二極をAとBとする。Aの力が80で、Bの力が20だとしたら、そのうちBが潰れてしまうわけだ。

互いへの力の受け渡しがうまくいかないと(大抵は信頼関係が崩れることでうまくいかない)たちまち力はエネルギー漏れをし循環しなくなり、それどころか怪我のリスクまで高まってしまう。

 

そこで、そうならないために、第三軸が必要となる。まっすぐ一方向にだけ向かっていた過剰な力を二方向に分散、もしくは2つの力を第三軸に集中して流すのである。

そうすることで怪我を防ぐわけである。

 

わかりやすいのが家族。

男と女の一対一の関係から始まり、

やがて2人が夫婦となって子を成す。子が生まれることにより夫婦が益々円満になることを、子は鎹なんて言ったりする。新たに生まれた子という第三軸に2人の力が一致団結し向かうわけだ。

これはわかりやすい良い形で三角関係が機能した場合。

 

一方で、良いとは言い難い三角関係もある。男女の三角関係なんかはその例である。一時、その関係は奇妙なバランスを保ちながら調和しているようにみえるが、内実アンバランスな力関係で成り立っているため段々と形が変形し最終的には必ず破綻する。なぜなら、一点にだけ力が集中するヒエラルキー構造になっているからだ。

 

三角関係の力学はなにも男女間だけではない。職場でも友人でももちろんおきうる。

 

職場でよく聞くパターンのひとつ。仲が悪かった従業員2人が、新人の従業員が新たに1人加わったことで、手のひらを返したようにタッグを組み、新人をネチネチやりはじめるなんてことも。不仲だった初めの二極が新たに登場した第三極に対して一気に負の感情を昇華することで2人の間の問題が一時的にそらされて不仲を忘れて仲良くなるなんていう奇妙な錬金術生まれる。負の感情を一気に請け負わされる第三極の立場はまるで竹炭か雑巾である。たまったもんではないだろうに。やれやれ。。

 

問題の焦点をそらすために新たな別の問題に意識をそらせるような手法を国家が国民に対してすることもこの構図とそっくりである。浮気された女性の怒りが浮気をした男性に向かうより浮気相手の女性に向かうなんていうのも典型的な焦点のズレである。

 

ちなみに余談。昔カルテットという名前のドラマがあったが、ふたつの三角関係の一片だけを背中合わせにして合体すると四角関係となる。そうすると四角なだけに死角ができる。この死角同士が見えてしまったらこのバランスは一体どうなってしまうのだろうと。。現実にそんなことがそうそうあるかはよくわからないが。

 

なるべくならば、ハズレくじの第三極にはなりたくないものだ。もし仮に、対立をしていた初めの二極が第三極の出現により仲直りをしたとしたならば、結果的に仲を取り持つ役割を果たした第三極には感謝をしたほうがいいだろう。しかしながら、人は都合良く忘れてしまうものである。

 

子を鎹として良い関係を築いていた夫婦も、いづれは子が成長し自立をすることを忘れてはいけない。いつまでも夫婦仲の接着剤として子を三角型にい続けさせてはいけないのである。なぜなら、人間関係の基本は一対一がすべてだからだ。

 

なので、いつでも第三極を必要としない一対一の信頼関係を築くことが大切である。

二極のみの視野狭窄に陥らずに互いを信頼し合い、あまりにも深くて大きな互いへの愛情を、破壊するためにではなく何かを創造するために調和させて、共同創造の力に変えて、2人で作り上げたい世界という第三軸に向かわせることで美しく昇華し循環させてほしいと願うばかりである。

 

二極が引き合う本来の力は愛と信頼なのだから。

 

 

 

 

骨を美しいと何故思うのか、ずっと考えていた。

 

晩年、癌を患い痩せ衰えてしまった父の姿を折に触れよく思い出す。

 

よく人は、病によって痩せ衰えていく人の姿をみて憐れむが、何故だか私は病床時痩せゆく父をみてそう感じることがなかったように思う。もちろん、父の身体が以前とは見違えるほどどんどん動けなくなっていくことに胸が傷んだし辛かったが、それとは全く違う次元で、痩せ衰えていくほどに父の持つ生命力がどんどんと浮き彫りになっていく様を目の当たりにしたからかもしれない。

 

末期癌を患い余命いくばくもない父と約二ヶ月、在宅医療にお世話になりながら自宅看護をして過ごした。

 

その間、毎日のように父の身体をマッサージした。咳き込む父の背中に温タオルを当てた時に、父の肩や背中の骨がまるで別人のように浮き立っていてハッとしたことがある。

 

最早、幼い頃に自転車の後ろに乗った時に掴まった父のガッシリとした筋肉の背中ではなかったが、何故か筋肉が落ち骨が浮き立ったその背中が不思議と弱々しく感じられなかった。むしろ、浮き立つ骨の存在感に圧倒された。これが、今まで父の強い身体を支えていた骨なのかと、背中に触れながら変わらぬ父の大きさを感じたことを覚えている。

 

きっと私はあの二ヶ月間、どちらかというと即身仏のようにあらゆるものが削ぎ落とされていく美しさを父の姿にみていたのかもしれない。

そして、衰えていくほどに生きようとする姿は、まるで蝋を溶かし最後の芯だけになって燃え尽きようとする直前に、一層明るく強く燃える火のようでもあった。

 

可哀想に痩せてと嘆くこともなく、それよりもその姿にこそ生命力をより一層感じる自分の感覚はおかしいことなのかなと思い、この時の感情を書くことをずっとためらっていた。

けれど最近、女性のヌード写真を骨が浮き立つかのように上から鉛筆で塗りつぶしガリガリに痩せさせた女性の絵を描く人の作品についての記事をたまたま目にした時、とても腑に落ちた。

極端に痩せる女性の姿の中にインドの女神と同じような生命力を見つけていたのではないかとその記事には書かれていた。

 

きっと私も痩せ衰えていく父の姿の中に、その作者が感じたものと似たような光を見つけていたのかもしれない。

 

その光とは生きる力だ。

生きる力は、その人がどう生きてきたのか証を残す。その証はその人を支えた骨そのものだ。

 

人は亡くなると最後は荼毘に付される。人の身体で燃やしても朽ちずに最後まで残るのは骨だけだ。

 

長年コツコツ築いて作りあげ、その人の身体を支え続けた柱の骨だけが残る。

 

骨はその人を支えてきた全ての記憶、美しいに決まっているのだ。

 

自分を形作る骨、自分を支える骨はコツコツ積み重ねていった日々の営みそのもの。日々何を積み重ねていくか。

 

日々生きるとは骨格形成なのだ。

 

骨まで愛してとはいうが、

骨まで愛される人生を、と願う。