「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

縁は異なもの味なもの

(この文章は2016年11月に書いたものです。)

 

人との出会いほど面白いものはない。

人とのご縁とは本当に不思議。

縁は異なもの味なものとはいうけれど。

(ここでは男女に限らず、全てのご縁、人脈に関して)

本当にそーだなと思う。

 

老若男女、国籍問わず、

色んな人に色んな場所に出会えば出会うほど、その度に、まだ見ぬ新しい自分を発見する。

 

知らない人、知らない土地であればあるほど、新しい人、新しい場所であればあるほど、知らなかった、新しい自分に出会う。

 

だから、きっと、それが楽しくて、どんどん色んな人、色んな場所に、勇気を出して、出会って繋がっていこうとするんだろーな。

 

 もちろん、今までずっと繋がってきた旧知の仲の人たちも、そう。いつも、自分を再発見させてくれる貴重な存在。

 

私を360度で表現したら、

出会う人は、良くも悪くも、ほんのちょっとでも、わたしの360度のどこかの度数と共鳴してくれているということ。たとえ、一期一会だとしても。一人一人、みんな違う度数を担当してくれて、色んな度数の私を垣間見せてくれているんだろね。

 

角度45度の私とか、

角度90度の私とか、

角度180度の私とか。

もっと細かく、角度81度の私とか。

角度359度の私とか、、(以下、延々と続く)

 

そんな中でも、ある時、360度、全方位色んな角度から、特に自分では気づけない角度の私を誰よりも見せてくれる貴重な存在にでくわすことがあるみたい。

 

無色透明な鏡みたいに、嫌になるくらいどんどん己の姿を照らし出して、私が握りしめていた価値観をドンドンぶち壊すキッカケをくれるから、時々、自分ってこんな人だったっけ?と混乱したり。

 

でも、限界ギリギリ掘り起こして見つけるものは、いつも目から鱗だったりするから、宝探ししてるみたい。

 

恥ずかしながら、 暴露すると、

 

自分は、昔からすごく無常感が強くて、あきっぽく、何事につけ、良くも悪くもあきらめがよすぎて(絵を描くこと以外は)、それ故か、オマケにせっかちで、忍耐力がない人間という自覚があるのだけど、

 

どうやら最近は、いつの間にやら、

けっこうあきらめが悪くなって、(良く言うと粘り強くなって)意外としつこい人間に変貌しつつあるみたい(汗)

 

ここまで書いてて、自分でもなんかいやになるな(笑)

ただのドMでスポ根な人じゃん…(T-T)

 

そして、だんだん遠慮がなくなって、

どんどん我が儘になって、
どんどんプライドもなくなって、
どんどん忍耐強くなって、
どんどん行動力が増す自分を、

ちょっと気に入り始めているらしい…(汗)

 

きっと、私の超繊細なガラスのハートを、容赦無くパリンッパリンッと割りまくる存在のせいで、いつの間にか鍛えられたのかもしれないな。

 

(もう自分で言えちゃうようになった時点で、すでに超繊細でもなく、ガラスのハートでもないのがバレてるな)

 

お陰で、私のハートはだんだん耐久ガラスになろうとしている…(汗)

 

そうだな、折角だから、ステンドグラスみたいな綺麗な模様のハートに完成したらいいんだけどなぁ!

 

そんなわけで、誰よりも我が身を成長させてくれる、そんな有難い存在に出くわした自分はラッキーだなと、最近しみじみ思う。

 

人って出会いで変わるもんですな。

 

本当に、いつ、どこで、どんな人にでくわすのかは、予想外だから面白いのかもしれない。

 

そして、色んな出会いがもたらすものがどう結実するのかも、やっぱり自分の範疇を超えて、”神のみぞ知る”なのだろう。

 

ま、それも流れにまかせて楽しんだモン勝ちだな。

 

これからも、いつ、どこで、どんな人とでくわすことやら。

 

縁は異なもの味なもの。

 

これからも、老若男女、国籍問わず、色んなご縁を楽しみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

球根

(この文章は2017年1月17日に書いたものです。)

 

唐突ですが、私は球根がすきです。

なんか、かわいい。

ぽこっと丸くて。

手のひらにおさまるサイズも。

仲間みたいな、どんぐりとか木の実とか種とかお豆もすき。

つぶつぶ。丸いこたち。

やっぱり、かわいい。

 

あの小さな粒が土の中に植えられると、お水と光がお手伝いして、いつの間にか、にょきにょき成長して、粒から想像もできなかった不思議な形や美しい姿に見事に変身するのだもの。

 

なんとも愉快!

 

種自体はみんな同じような素朴なかたちだったりするのにね。

すごいな〜と思います。

 

あの小さな粒の中にたくさんの憧れやイメージや情報や計画がぎゅっと濃縮してはいっているのかな?

 

粒の見た夢。

 

その夢を、土や水や光の助けを借りて具現化する粒。

 

なんか、ロマン。

 

秋から冬は、たくさんの球根が出回ります。リコリス水仙・ヒヤシンス・アネモネラナンキュラス

 

そして、球根といえばやっぱりチューリップ。

 

チューリップは、寒くなる前に土に植えて、春の開花を待ちます。

 

球根は、春が来るまで、じっくりと、真っ暗な、ふかふかの土の中で、根をにょきにょき伸ばしながら、たくさんの栄養を蓄えて、ひたすらに暖かくなるのを待っています。

そして、時期がきたら、ポンッと青々とした芽を土の中からひょっこり出します。

 

きっと、球根は、芽を出すタイミングを知っているんだろね。

だから、安心して土の中で冬を過ごしてる。

 

そして、芽を出すと、、、

 

(球根の声)

あ、あったかい…

あ、あかるい…

あ、まぶしい…

あ、きもちいい…

 

のびのび

ぐんぐん

ぽんっ!

 

きっと、こんな感じで花を咲かせるんだろうな。ほっこり。

 

球根は、芽を出すこと、茎を伸ばすこと、咲くことをためらったりなどしないのでしょう。きっと、咲くことが花の定めだと、ミッションなのだと知っているからだね。

 

チューリップは、バラになりたいと思っても、チューリップとしてしか咲けないし、バラはチューリップになりたくてもバラとしてしか咲けません。

 

チューリップは春に咲くけれど、

バラは春と秋に咲きます。

 

春に咲く花

夏に咲く花

秋に咲く花

冬に咲く花

毎年咲く花

一年限りの花

数年に一度咲く花

 

色んな花があります。

全部が完璧なタイミングで、全部が違う花を咲かせます。

 

人も同じなんだろね。

 

いつ、

どこで、

どのタイミングで、

どんな花が咲くのか、

私たちは

本当は知ってるはずなのに、

全く知らないから、

 

だから、

 

いつ、

どこで、

どのタイミングで、

こんな花が咲けばいいのにと、

憧れて夢を見るのかもしれません。

 

バラがいい、

紫陽花がいい、

桜がいい、

百合になりたいと、

 

春に咲きたい、

夏に咲きたい、

一年中咲きたい、

毎年咲きたいと、

憧れたりするのかもしれません。

 

でも、バラじゃなくて、たんぽぽだったりするかもしれないし、紫陽花じゃなくて、向日葵だったりするかもしれません。

 

バラはバラでも、赤いバラじゃなく白いバラかもしれないし、つるバラじゃなく、ミニバラだったりするかもしれません。

 

好きか嫌いかはあるかもしれないけれど、どんなお花であっても、比べようもなく、どれも個性的で美しいことには変わりはありません。

 

そう考えると、人も、自分と誰かや、誰かと誰かを比べたりすることは、なんの意味も無いことに思えたりします。

 

だって、そもそもがみんな同じじゃないのだから。咲く花も時期も。

 

毎年咲く花もあれば、

一年に一度、たった1日だけ咲く花もあります。何年かに一度しか咲かないお花もあります。そこに優劣はありません。

 

だから、もし、どうしようもなく自分と誰かとを比べてしまって、自信をなくしたり、落ち込んでしまったり、腹を立てたり、羨んだりしたなら、そういう時は、みんなお花だと思えばいいかもしれませんね。

 

そしたら、自信をなくしたり、悲しくなったり、誰かに腹を立てたり、羨んだりすることは、なんの意味もないことなのだと、気持ちが和むかも。

 

土や水や光の助けを借りて、時に任せながら、それぞれのお花をそれぞれのタイミングで咲かせれば良いのでしょう。

 

なんて、一年で1番寒いこの冬、春に思いを馳せつつ、花になぞらえて思ったのでありました。

 

 

 

 

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一対一野球の手の抜き方

(この文章は2016年11月に書いた文章です。)

以前、「一対一野球」という、甥っ子が小さい頃によく野球の遊びと称した練習に付き合っていた話を笑いを込めて書いたのですが(一本前の11月30日の記事)、そういえばと、思い出したことがあります。

 

 

それは、”一対一野球の手の抜き方”について。

 

一対一野球はまともに付き合うとクッタクタになります。

 

(詳しくは、1つ前の「一対一野球」を読んでください。)

 

子どもの要求というのは、そのまま優しさのみで受け止め続けていると、どんどん調子こいてエスカレートするばかりなので、時々、調子に乗らせすぎない”工夫”をすることで、上手に手を抜いて付き合い続けておりました。

 

というより、私じゃなく、

義理の兄が(笑)

 

甥っ子の父親です。

(私の姉の旦那さん)

 

いや、工夫というよりも、最早、大人の悪知恵と申しましょうか(笑)”愛ゆえに”と、申しましょうか。。

 

そのへんは流石に実の父親で男。やり方はちっとも大人的ではないし、理不尽だし、徹底的に容赦ないです(爆)

 

基本、甥っ子のバッティングの練習相手として、大人がずっとピッチングをしてあげるのですが、私の場合、”たくさん当てた打てたできた!”という達成感を心から味わって欲しい、そして調子に乗って自信をつけて益々野球が好きになって欲しいと、打ちやすいボールをずっと投げ続けてあげていたわけなんです。なので、要求に応えるかの如く、ずっと全力で付き合う私の方は最終的にクッタクタになるのですが、子どもにしてみれば思い通りになって、きっと達成感と満足感で一杯でしょう。

 

ですが、義理の兄の場合は違います。

 

基本は私とおなじで達成感満足感を味わってもらうなんですが、そこに時々程よい”試練”をちょいちょい挟みます。

 

え?程よい試練!?

 

ちょっと大袈裟な言い回しですが、そうだな、難関、壁、スンナリいかない、なかなかどーにもならない、うまくいかない感っていうんですかね。

 

ゲームでいうところの障害物みたいなものとでもいいましょうか。

 

それはどーいうものかというと、子どもの欲求は底なしなので、大人側は体力的にも全力でずっと練習に付き合い続けると疲れるし、一方的で面白くもないので、時々ワザとピッチングで暴投したり(ボールはその度に甥っ子に取りにいかせる。その間体力回復(笑))いつもより、実力的に打てないような早いボールを投げ続けたりして、甥っ子がナイスバッティングをできないようにワザとしむけるのです。(笑)

 

はい、突然の大人の特権、力の行使!

ええ、ええ、やり方が超大人気ないです!そして、理不尽この上なく容赦ないです!

 

甥っ子にしてみれば、突然ボールを気持ちよく打てなくなり、今までと違い、自分の都合よく合わせてくれなくなったのがわかるので、不愉快極まりないし、思い通りにならないから、ちっとも楽しくありませんよね。

 

そして、子どもは本能的に大人には絶対に力じゃ敵わないのがわかってますから、どーにもならないとみるや、ついには怒り出します。「ずるい!」とか知りうる限りの言葉を並べたてて抗議したりします。そして、立ち向かってなんとしても打とうとしたり。

 

でも、ここが義理の兄のさじ加減のうまさ。様子をみて、面白がって笑い流しながら、何事もなかったかのように、また打ちやすいボールを投げて気分をあげてあげたりするわけです。そして、また調子に乗ってきたら試練を挟むという(笑)この繰り返し。その様子はコントみたいなんですが、結果的に、山あり谷ありのほうが、甥っ子の、男子特有の負けず嫌いを刺激されてやる気になってりして、最終的に満足度が増してたりもしてて。

 

この飴と鞭の使い分け!

このツンデレ感!

 

そうやって、義理の兄は、ワザと時々程よく甥っ子に打たせない時間をつくりつつ、自分の体力回復を測りながらもトコトン子どもの遊びに付き合っていたわけでした。

 

なるほどなーと、今更ながら思います。

 まぁ、もちろん、やり方には賛否両論はあるでしょう(笑)ケースバイケースですが、嘘も方便的というか、ジレンマ加減が素晴らしく(笑)

 

一時のことならば、全力でトコトン付き合うのもいいでしょう。けれど、長く付き合い続けるには、程よい”手抜き”=”遊び”が必要です。一方通行では長くは付き合えません。偏るとどっちかがくたばります。

 

大事なのは、決して、自分の都合のいいように相手をコントロールするためではなく、自分と相手が対等に、お互いが気持ちよく面白く付き合い続けられるようにする工夫。一歩間違えると、相手をコントロールすることになりかねませんから、お互いが楽しむことが前提となります。

 

大抵の女子は、飴と鞭ならば、飴を求めて、そして飴を与えたくなるものですが、義理兄の鞭使いの”優しさ”の真髄をみるにつけ、飴だけではいかんなぁ、程よい飴と鞭のバランスが大事だなぁ〜と思うのでありました。

 

”厳しさ風味の優しさ”、”どーにもならない理不尽さ故の面白さ”というのも、ある意味、愛の形ですからね。

 

 

 

 

 

 

 

一対一野球

 (この文章は2015年3月に書いた文章です。)

 

野球といえば、甥っ子のやまと。

地元の少年野球チームに所属していて、毎週末になると朝早くから練習に試合にと頑張っているらしいです。


なにやら随分上達したようで、なかなか活躍しているらしいのですが、、、

 

「…ふっ、
そりゃそうでしょ。。。」


と、遠い目をしながら思ってしまう私。


…そう遠い目をしながら、、、
( ̄ー ̄)


ええ、ええ、

彼には相当付き合いましたからね、私。

( ̄ー ̄)


彼が小さい頃、どれだけ野球に付き合ったことかっ!

 

それはそれは忘れもしませんよ。

真夏の1対1野球の日々を…
( ̄ー ̄)

 

当時5歳のやまとは野球を覚えたてで、野球で遊ぶ時にはバッティングがメイン。ボールをいかに遠くまで打てるようになるか練習したくて仕方なかったようです。


従いまして、そんなやまとくんに付き合う2人野球は常に、


やまと→バッターのみ

私→ピッチャー
ファースト
セカンド
サード
ショート
ライト
レフト
センター
時々キャッチャー

攻守の交替一切なし!


という、圧倒的に不公平な対戦スタイルでした。


ええ、ま、5歳児相手ですからね。。




…ところが、


やまとくん、パッカンパッカン遠くまで打ちまくりましてね。


!!( ̄◇ ̄;)


5ちゃいだからと舐めておりました


身体が小さいのでストライクゾーンが狭く、更には打ちやすいようにとピッチャーとしては丁寧にゆっくりいい球投げてあげていたわけですよ。。


そしたらですね、


容赦ない5歳児の彼は右に左に真ん中にと
ナイスミート連発しまくるんですね…


あぁ、優しい叔母心が仇となり


私はピッチングするや、即、外野手に早変わりです。


後ろを誰も守ってやくれてませんからね。


真夏の公園をいい大人が必死に白球を追いかけている間に、5ちゃいの彼は架空のベースを一塁二塁三塁とぐるぐる嬉しそうに走ってホームイン。

 

…って、おいっ!!!(ーー;)

 

不利だよ不利っ!
不公平だよ不公平っ!


しかしながら、相手は5歳児。
唯我独尊。
理屈なぞ通じません。


「まぁ、彼のバッティング技術が向上すれば良い」と大人的理由で、「こんなことはなんでもないさ」的な顔をして、圧倒的理不尽を飲み込んで付き合い続けるも、そんな大人なぞに全く遠慮なく続く容赦ないやまとくんのナイスバッティング…


延々と続くランニングホームラン。。
永遠に来ない守備交代。。


あぁ、、いつの間にか、自らがピッチングマシーンを兼務しながら、やまとくんのノックを受けているような図。。高校のソフト部時代の真夏のノックの再現か!


あの5歳児は、天使のように無邪気なお顔をして、なんてサディスティックなんでしょう!


(T ^ T)


こんな1対1野球の相手をよく日が暮れるまで付き合ってあげたのですよ。私。

 

やまとよ、忘れたなんて言わせんっ!

 

忘れてたって、
いつまでもずっと応援し続けてやる!

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節分って本当は何だろ?って考えてみました。

 

(この文章は2016年2月にかいた 文章です)

 

「花は花。花の形を問うものなどいやしない…」(独り言)

 

早いもので、今日から2月!そして、そろそろ節分ですね~。


すっかり世間は恵方巻きとバレンタインデー商戦一色ですけどね…(^▽^;)


さて、節分といえば「鬼は~外!福は~内!」って豆撒いて年の数だけ豆食べてって感じくらいの行事でしか頭にないですけど、ホントはどーなんだろ?


Wikipediaでザックリ調べると…


季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。
~中略~
豆(魔目)を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い一年の無病息災を願うという意味合いがある。


とのことです。なるほど。。


節分って丁度、立春の前日。
そして、今年は1月28日が旧暦元旦。
なので、旧暦だと丁度今は新しい年が始まったばかり、季節の変わり目ともいえますよね。年末年始の邪気払いという訳か。


ところで、邪気=鬼だそうですが、そもそも払おうとする邪気=鬼ってなんなんでしょうかな?


そう考えてパッと思い浮かんだのが、積ん読状態になってた内田樹さんの『呪いの時代』

 

『すべては自らかけた
「呪い」から始まった。

他人を呪うことは、自らを呪うこと。「ほんとうの私」なんてどこをさがしてもいない。そろそろ、ありのままの自分を受け入れて、もっと自分を愛そう。そして、他者にも祝福の言葉を贈ってみよう。それが「呪い」を解く鍵なのだからーー』

 

…題名と帯文句がすごいですよね
( ̄◇ ̄;)


数年前、インパクトがあって今の時代を絶妙に言い当てられてる感じがして、面白そうだなと本屋さんで即買いした本。


斜め読みして積ん読状態だったんですが、なんか「呪い」って言葉と「鬼」って通じる気がしました。。


「呪い」っていうとオドロオドロしくて嫌な印象の言葉なので、「間違った思い込み」とか「手錠」って言葉に代えても良いかもしれませんね。


自分で自分に勝手にかけた「呪い=間違った思い込み=手錠」。


「私はどうせ○○だから、○○なんてできやしない、○○してはいけない(資格がない)」
…こういう感じでしょうかね。


で、そういう「呪い」的思考パターンって、大抵、罪悪感に由来していて。


自分への罪。そして罰。


でもね、そんなもの相当倫理観に背いた事じゃない限り、よっぽどじゃなきゃないようにも思ったり。自分で勝手に罪と罰の手錠かけちゃってるだけなんだ。


大抵、世間や他人のものさしで「良し悪し」を図って罪にしたり、罰にしたりしてるんじゃないだろうか。。


それを「正義」とか「正しさ」ってしてしまうと、自分の素直さが時に罪のように思えてしまうことがでてきてしまったり。


結局、本当の「正しさ」なんてないんだ。
「正しさ」じゃなくそれぞれの「素直さ」しかないんじゃないだろか。


理屈抜きに自分がいいなぁって感じたその感覚だけが紛れもなく自分にとっての真実なのだし、思うことそれ自体は罪ではないからすなわち罰もない。。


昔、ガリレオガリレイが天動説主流の世の中に「それでも地球は回ってる!」とどんなに糾弾されたとて地動説を唱え続けたように。


…ちょっと逸れましたが、「呪い」って、「自分の真実に目を瞑り、忘れたふりをし自分を騙すこと」なのかも。それは誰かに「呪い」をかけられるのではなく、知らず知らずの内に、自分で自分に勝手にかけたもので。


でも、自分で自分にかけたのだから、自分で解くこともできるのだと思うし、最後の最後は自分でしか解けないんだと思う。


それから「呪い」をかけられるのなら、「魔法」だってかけることもできるのかも。「魔法」=すなわち「良い思い込み=何処でもドア?(笑)」


でも、「呪い」に一度かかったからこそ「真実」に気づくって逆説もあるから、「呪い」が一概に悪いともいえない。。「魔法」が勘違いの「全能感」に結びついてしまうことだってある。。


ぐるぐる…(^▽^;)


なんだか小難しい話になっちゃいましたが、節分で払う邪気=鬼って、きっと、自分自身で自分にかけた「呪い」なんじゃないかなぁ~と思ったのでした。


で、「呪いよ、あっちいけー!」ってより、「本心に気づかせてくれてありがとー!」って払うのはどうかしら?
だって、その鬼はなんやかんやいっても今までの自分自身で、愛着や居心地の良かった鬼だったわけだし。ははは(^_^;)


鬼を払わない神社とか宗教もありますしね。

「コンチキショー!」でもまぁいいですけどね。スッキリするかもね(笑)


そんなわけで、節分前にこんなことを思ったわけでした。

青い芝生

(*2016年3月に書いた文章です)

人は皆、自分のことは案外、一番自分がよくわかっていないものなのかもしれない。。

そして、不意打ちのように、自分の一番かけがえのないものを、さりげなく見つけ教えてくれるのは、いつも自分じゃない誰かだったりする。

そんな目から鱗な出来事を今日感じることがあって、今までの気分はなんだったのかと驚くほど力がぬけた。

そして思った。

「今までも、そしてこれからも、自分もみんなもこれでよい」のだと。

そのあと、Mr.Childrenの『名もなき詩』の歌詞をふと思いだした。
大好きな歌なのだ。

歌詞のフレーズで表現するなら、、、『自分の真実を握りしめている』のは案外、自分以外の誰かだったり、誰しもが『自分らしさの檻の中でもがき』ながら『あるがままに生きよう』と不器用にそれぞれが生きているのものなのだ。


自分が、素直に、あるがままに、ただ自分のままに生きていることで、知らぬ間に意図せずに、時に誰かを傷つけてしまったり、

逆に、誰かが、素直に、あるがままに、ただその人のままに生きていることで、思いがけずに勝手に、時に自分が傷ついたり。

それは時に、お互いの姿のなかに「自分に無くて、誰かに有るもの」を拡大レンズでみてしまうからなのかもしれない。そして、羨んだり、寂しくなったり、悲しくなったり、怒りが湧いたり、虚しくなったり。

人は誰だって「隣の芝生は青く見える」もので。

自分の”ささくれ”をそのまま直視し認め、感じきることはちょっと苦しい作業。

そういう感情や姿を誰かに見せるのも格好悪いし、見せて誰かを不快にさせたり心配かけたり迷惑もかけたくないからと、自分の中だけで解決しようとして、”自分らしさ”に増々閉じこもったり、”自分らしさ”を疑ってしまったりもする。

でも時に、自分だけでは抱えきれないほどの”ささくれ”を、素直に、あるがままに、そのまま誰かにぽろっと見せてしまった時に、お互いの姿を写す拡大レンズがくるっと反転する魔法にかかることがある。

「自分に無くて、誰かにあるもの」から「自分に有るもの」を見せてくれる拡大レンズに一瞬でかわるのだ。

「隣の芝生は青いけれど、実は自分の芝生は自分で思っているよりも案外、隣の芝生と同じく青かったんだ。。」と、誰かがさりげなく気づかせてくれたりするのだ。

そして、お互いの”有るもの=青い芝生”のかけがえの無さに気づく。
「自分も捨てたもんじゃない。せっかくだから存分に生かさないともったいない」と心からありがたいと大切に思えてくる。

それぞれが持っている自分だけの”青い芝生”をその人らしさというのかもしれない。そして、人が誰かに渡せるのはその人らしさだけで。きっと、唯一その人らしさだけが、どんなに分けても刈り取っても決して無くならないものなのだと思う。だから、安心してどんどん渡せば良い。唯一、無理せずに、誰かに分けられるものだから。

傷つくのを恐れず、自分の素直な表現を閉じずに開いていく時に、自分一人では決して気づけない、かげがえのない真実を、意外なほどサラッと、誰かが教えてくれるようだ。そして、力が抜けた最後の最後にほわっと気づく。みんな本当は誰だって、初めから損なわれてなどないし、そのまんまで十分すてきなのだと。

やはり、人は一人では生きていけないということなのだなあ。。

誰かと分け合いながら生きるから「人の間」って書いて人間っていうのか。

やっぱり 「人間」って面白いな〜。
ナンダカンダ言ってやっぱり私は「人間」が好きらしい。。
(宇宙人的つぶやき・・笑)



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だから橋を架け続ける

最近、あらためて「コミュニケーション」について考える機会が立て続けにありました。そもそも、コミュニケーションってどーゆーことなのかって、根本的な初歩的なところをもう一回ちゃんとやっておきなさいよーって、まるで言われてるみたいな感じの出来事があったので備忘録としてちょっと書いておこうと思います。

 

コミュニケーションって、簡単にいうと、”私”と”あなた”との間でのやりとり・対話ですよね。キャッチボール。私がいて、あなたがいるから、あなたがいて、私がいるから成立する。私が一方的に発信していても、あなたが受け取らなければ成立しないし、逆に、私がなにも発信しなければ、あなたが受け取り返すこともできないわけで。どちらか一方だけでは成り立たないのがコミュニケーション。

 

そりゃそうだ(笑)

 

で、コミュニケーションをする上で、大切なことってやっぱり、双方が”素直であること”と”直接ハッキリと意思表示をすること”が大前提だよなぁと思ったわけです。

 

はい、もう一回、そりゃそうだ(笑)

 

不特定多数に向けて発信するのとは違うんですよ。一対一のやり取りなのだから。

 

でも案外、”素直であること”と”直接ハッキリ意思表示をすること”っていう当たり前のことができてないもので。(自分も含め)「ややこしくしたくない」「めんどくさい」という言葉で都合が悪くなると逃げてしまうことってありますよね。

 

どんな風かというと、必要以上に勝手に、①空気を読んだり、②遠慮したり、③建前だったり、④人に良く思われようとしたり、⑤自分にとって都合がいいように決めつけたり、⑥周りに(相手に)合わせすぎたり、我慢したり、⑦スルーしたり(無視)、こんな手口を使います(笑)

 

…あぁ、嫌な汗が沢山でてきますね(無意識に自分もやってるかもしれないので自戒もこめ。爆)

 

波風立てずに穏便に、仲良く、平和的にってたしかに大事なのだけれど、本心に反して、「ややこしくしたくない」「めんどくさい」からって①〜⑦のことをやり続けると、本当はもっと疲れますよね。。だって本心じゃないから。

とほほ。。

 

例えば、「嫌なものは嫌だ」とか、「自分はモーレツにあなたに腹たってんだ!」とか「悲しかった。傷つきました。」とか、一見相手に対してネガティヴに思えるような意思表示をハッキリ直接することって、その時は相手に嫌われるかもしれないし、傷つけるかもしれないし、嫌な気分にさせるかもしれないから、なかなか勇気がいることだけれど、時にはこれが一番傷が浅く平和的手段になることもありますよね。そうすることで誤解がとけてスッキリかえって仲直りすることだってあるかもしれない。(スッパリ引きずらなければ)

 

一方で、「嬉しかった」「好きです」などという相手に対してのポジティブな意思表示も、照れずに素直にすることも大事ですよね。恥ずかしいとか、言わなくたってわかるだろとか、察しろなんて表現しなかったら、それは心の中で思っていても相手に伝わらなかったら「ない」と同じことのようにも思います。

 

相手に発した言葉を受け止めてもらえないこと程、不安な事はないのです。

 

反応するんじゃなく、応答。

 

ネガティヴであれ、ポジティブであれ、ハッキリ素直に直接意思表示するというのは、相手に対しての愛と信頼がなければできないものね。(そもそも愛と信頼がなければ無視するだろう…どーでもよい人に対しては。愛の反対語は無関心)

 

日本では特に、「場に合わせる」とか「空気を読む」とか「察する」とかって文化的なコミュニケーションが染み付いているので、なかなか素直な気持ちをハッキリ直接伝えるコミュニケーション術を回避してしまう傾向にあるかもしれないけれど、(それが悪い訳ではないのですよ)最近、やっぱり私はエスパーじゃないし、空気には文字は書かれてないから読めないし(汗)、それがもしできるなら、人間、五感を持ってる意味ないし、文字も言葉もそもそもいらないんじゃないかって思うのであります…(^_^;)

 

だから、やっぱり、どんな時でも誰に対しても、直接一人一人に素直な意思表示のコミュニケーションを心がけたいなぁと思ったのでありました。なんといってもそれが双方一番楽だしねぇ。

 

それから、コミュニケーションのキャッチボールが、対等じゃないパターンもありますよね。

 

相手を自分の都合のいいように思い通りにしようとして、ダブルバインドして有無を言わさなかったり、相手をコントロールするようなやりとりは、ただの支配関係であり対等ではないから、最早、コミュニケーションとは言えなかったり。コントロールする側は、常に自分が有利でいたい、単に相手の同意を得て自尊心を保ちたいだけなのかも…それは信頼関係からは程遠く。

 

コミュニケーションの基本はどんな相手であっても対等であり、尊敬の念を忘れない事だと思うのです。

 

人間関係は、色々な側面があるものですねぇ…しみじみ。

 

さて、最後に、コミュニケーションについて考えた時にキョーレツに思い出したのが、昔、BL漫画好きな姉(爆)に勧められて読んだ、水城せとなさんの『窮鼠はチーズの夢を見る』と続編の『俎上の鯉は二度跳ねる』というBL漫画です。

 

えっと、雑食な姉と違い、普段BL漫画に興味ない私ですが、この作品はかなり好きです。BL漫画なので、恭一と今ケ瀬という男二人が主人公の恋愛漫画なのですが、この二人のやりとりが本当に凄いのです。もう、徹底的な痴話喧嘩(笑)弱さもカッコ悪さも愚かさも全部見せ合いながら、ぶつかりまくりながらも、ずっと互いに向き合い続けていく。

 

そして、最後の場面での恭一のセリフ

 

『 愛の言葉は難しいよ。

お前にはきっと俺の気持ちは永遠に伝わらないだろう。

隘路はお前だ。そして、俺だ。

この溝は永遠に埋まらない。

だから橋を架け続ける。濁流に流されたら、また、架け直す』

 

このセリフには考えさせられるものがありますね。

 

家族であっても、恋人であっても、友達であっても、どんなに大切な好きな人であっても、人間は全員が1人として同じ人などいないし、違うからこそ、絶対に共有できない、埋めることのできない部分”溝”はあって。

 

無理に誰とでも共有共感なんてする必要はないし、みんなに求める必要はないけれど、1人1人みんな違うから、絶対的な溝、境界線があるからこそ、繋がること、橋を掛けようとすることが大事なんだと思うのです。

 

そして、橋を掛け続けようと意志することは愛なのだろうなぁと。

 

まぁ、できればあまり喧嘩せず、初めから穏やかな心地よい関係性が一番ではありますけど、そもそも穏やかな関係性、平和とは、誰かの我慢や犠牲、遠慮で成り立たせるものではないと思うのです。

誰1人我慢や遠慮をせずに、素直でいることは、時に意見の対立をすることもあるかもしれません。けれど、互いの立場考え方の違い、思いを互いに向けてちゃんと表現をしなければ、真の意味で相互理解して平和にすることなどできないのです。

 

だからこそ、遠慮せず、腹を割り素直に表現することがとても大切なのです。

そして、素直に思いを表現することは互いに対しての感謝であり愛でありリスペクトでもあると思うのです。

 

コミュニケーションとは、そういうものだと思います。

 

脱線しましたが、真のコミュニケーションについてなかなか考えさせられる作品の一つです。ご興味ある方は、是非ともご一読おススメですよ。

 

そんな訳で、長々とコミュニケーションについてしみじみ思ったことを自戒も込めつつ書いてみました。