「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

縁は異なもの味なもの

人との出会いほど面白いものはない。

人とのご縁とは本当に不思議。

縁は異なもの味なものとはいうけれど。

(ここでは男女に限らず、全てのご縁、人脈に関して)

本当にそーだなと思う。

 

老若男女、国籍問わず、

色んな人に色んな場所に出会えば出会うほど、その度に、まだ見ぬ新しい自分を発見する。

 

知らない人、知らない土地であればあるほど、新しい人、新しい場所であればあるほど、知らなかった、新しい自分に出会う。

 

だから、きっと、それが楽しくて、どんどん色んな人、色んな場所に、勇気を出して、出会って繋がっていこうとするんだろーな。

 

 もちろん、今までずっと繋がってきた旧知の仲の人たちも、そう。いつも、自分を再発見させてくれる貴重な存在。

 

私を360度で表現したら、

出会う人は、良くも悪くも、ほんのちょっとでも、わたしの360度のどこかの度数と共鳴してくれているということ。たとえ、一期一会だとしても。一人一人、みんな違う度数を担当してくれて、色んな度数の私を垣間見せてくれているんだろね。

 

角度45度の私とか、

角度90度の私とか、

角度180度の私とか。

もっと細かく、角度81度の私とか。

角度359度の私とか、、(以下、延々と続く)

 

そんな中でも、ある時、360度、全方位色んな角度から、特に自分では気づけない角度の私を誰よりも見せてくれる貴重な存在にでくわすことがあるみたい。

 

無色透明な鏡みたいに、嫌になるくらいどんどん己の姿を照らし出して、私が握りしめていた価値観をドンドンぶち壊すキッカケをくれるから、時々、自分ってこんな人だったっけ?と混乱したり。

 

でも、限界ギリギリ掘り起こして見つけるものは、いつも目から鱗だったりするから、宝探ししてるみたい。

 

恥ずかしながら、 暴露すると、

 

自分は、昔からすごく無常感が強くて、あきっぽく、何事につけ、良くも悪くもあきらめがよすぎて(絵を描くこと以外は)、それ故か、オマケにせっかちで、忍耐力がない人間という自覚があるのだけど、

 

どうやら最近は、いつの間にやら、

けっこうあきらめが悪くなって、(良く言うと粘り強くなって)意外としつこい人間に変貌しつつあるみたい(汗)

 

ここまで書いてて、自分でもなんかいやになるな(笑)

ただのドMでスポ根な人じゃん…(T-T)

 

そして、だんだん遠慮がなくなって、

どんどん我が儘になって、
どんどんプライドもなくなって、
どんどん忍耐強くなって、
どんどん行動力が増す自分を、

ちょっと気に入り始めているらしい…(汗)

 

きっと、私の超繊細なガラスのハートを、容赦無くパリンッパリンッと割りまくる存在のせいで、いつの間にか鍛えられたのかもしれないな。

 

(もう自分で言えちゃうようになった時点で、すでに超繊細でもなく、ガラスのハートでもないのがバレてるな)

 

お陰で、私のハートはだんだん耐久ガラスになろうとしている…(汗)

 

そうだな、折角だから、ステンドグラスみたいな綺麗な模様のハートに完成したらいいんだけどなぁ!

 

そんなわけで、誰よりも我が身を成長させてくれる、そんな有難い存在に出くわした自分はラッキーだなと、最近しみじみ思う。

 

人って出会いで変わるもんですな。

 

本当に、いつ、どこで、どんな人にでくわすのかは、予想外だから面白いのかもしれない。

 

そして、色んな出会いがもたらすものがどう結実するのかも、やっぱり自分の範疇を超えて、”神のみぞ知る”なのだろう。

 

ま、それも流れにまかせて楽しんだモン勝ちだな。

 

これからも、いつ、どこで、どんな人とでくわすことやら。

 

縁は異なもの味なもの。

 

これからも、老若男女、国籍問わず、色んなご縁を楽しみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その4 弱さという強さ②

私は長年、生まれながらの虚弱体質から脱却すべく、今まで色んな方法で体質改善を自分なりに試してきました。

 

けれど最近になって、本当は「方法」よりも「在り方」の方が大事なんじゃないかなと、思うように至りました。

 

今までの私は、確かに、身体に良さそうな色んな方法や手段を沢山試してきた甲斐もあって、以前よりも身体が強くなったし、そう実感もしています。

 

けれど、本当に心身の健やかさを実感できているかと自問してみたら、どうもそうは感じられないのです。これだけ色々やってきているのにも関わらず、なぜなのだろう?根本的な何かが、どうも違うのだよなぁ…という感覚がいつまでもつきまとっていました。

 

そして、つい最近になって、一番根本的な問いにようやく突き当たりました。

 

「そもそも私は、自分の身体を愛しているだろうか?」と。

 

私は病気がちで自分の思い通りになかなかならない身体をいつも無理矢理力ずくで動かしてきたのではないだろうか?思い通りにならない身体を好きになれず、今までずっと嫌ってきたのかもしれない…と思いました。

 

弱い身体を好きになれず、必死に別の強い身体になろうとしてきたのかもしれないと。

 

そんな私だから、自分の身体を労ろう、大切に扱おう、身体の喜ぶことをしようという発想になるはずもなく、身体を如何にして自分の思い通りの健康的な状態にコントロールできるか、いうことをきくようにするかと、そんな風に身体に接してきたのかもしれません。

 

本当に女子らしからぬ身体の扱い方ですよね。。(汗)

 

いくら一時的に健康であったとしても、常日頃、身体を愛し大切にできていなければ、身体は健康を保てるはずもありません。美しく咲いた花でさえ、世話をせず愛でずに無視し続ければすぐ枯れてしまうのと同じです。

 

この歳になってようやくそんな当たり前のことに、やっと気がついたのです…(汗)

 

そう気づいたら、急に私は身体さんに申し訳ない気持ちで一杯になりました。

今までどれだけ身体さんは私のために健気に頑張ってきてくれただろう…

 

身体さん、ごめんね…

 

今からでも遅くはない!身体さんとちゃんと対話して好きになりたい…

 

そんな訳で、改めて昨年秋頃から意識的に自分の身体を労わり、丁寧に向き合うことを心掛けることを少しずつ始めたのでした。

 

それは本当になんてこともないことで。

 

お風呂にゆっくり入ったり、丁寧にオイルマッサージをしたり、時々ヨガをしたり、散歩したり、身体によい美味しいものを食べたり、着たいなと思った服を着てオシャレを楽しんだり、美容室でヘッドスパしてもらったり、夜寝る時にアロマオイルの香りで癒されたり、疲れたら無理をせず、温かくして、よく休んだり眠ったり、、、

 

身体の声に耳をかたむけ、身体を可愛がるように大切に扱い、身体が心地よいと感じ喜ぶことを思いつく限り色々楽しんでやってみました。

 

おお!なんて女子な生活!(爆)

 

意識的にそんなことを始めてみると、如何に自分は今までそんなことさえもちゃんとしてこなかったのか、、、

しみじみ気づかされたものです。

とほほ。

 

そして、そんな生活を意識的に始めてから約半年。この春にビックリするような変化が身体に現れたのです。

 

なんと、突然の皮膚疾患を発症したのです!

 

え?丁寧に大切にしてきたのに病気になっちゃったの?全然だめじゃない?って思われたかもしれません。

 

けれど、私は皮膚疾患が現れたことを密かにチャンスかもしれない思っていました。そして、私の身体さんに感謝していました。

 

なぜかというと、その時私は、身体の”大掃除・デトックス”ができる大きなチャンスがやってきたと思ったからです。

 

 

その5に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その3 弱さという強さ①

私には長い間、身体的劣等感があったように思います。

 

それは外見的なものというより、「元々もつ身体の力が弱い」という劣等感。

 

元々私は小児喘息持ちで、季節の変わり目などには必ず風邪をひき、その度に喘息の発作を起こし、いつも学校を休みがちな虚弱体質な子供でした。

 

一度発作が起こると、生きた心地がしません。まともに呼吸ができなくなるのです。いつもこのまま呼吸ができなくなって死んでしまうのではないかと思いながら、何も出来ず布団の中で小さくうずくまり、うつ伏せになりながら背中でなんとか必死に呼吸をして、ただただ早く発作が過ぎ去ってくれないかと、朦朧とやり過ごすことしか出来なくなるのです。

 

なので、発作が起こるとすぐ緊急で病院に連れて行かれ、いつも吸入器のお世話になりました。吸入器をかけた後は、あの発作がまるで嘘のように呼吸がスムーズにできるようになるのです。

 

私にとって、吸入器はまるで魔法のようなものでした。

 

そんな訳で私は、頻繁に病院に通っては大量のお薬に頼るということが当たり前の子供時代を過ごしてきました。

 

そして、段々と成長するにつれて体力もつき、女子なので思春期頃には月のものも始まり、身体の自然な変化に伴っていつの間にか小児喘息の発作が起こることもなくなりました。

 

喘息が起こらなくなり、長年の病院通いやお薬を飲むことから解放されたことは私にとってとても大きなことでした。それ以来私は、子供時代の反動もあってか、病院通いもお薬に頼ることも殆どしなくなりました。

 

というのも、子供の頃、体調を崩す度に処方される大量のお薬を飲むことが毎回すごく苦痛で、嫌気がさしていたことと、子供ながらに、なんでこんなにお薬は不味いのか、そして、なんでこれほどまでに大量のお薬を飲んでいるにもかかわらず、一時的に治ってもまた度々病気になるのか、病気が完治しないのか素朴に疑問だったのです。そして、薬に依存し続けたくなかったのです。

 

小児喘息は自然と治ったとはいえ、その後は身体の別の不定愁訴に度々見舞われるようになりました。その度に、あいも変わらず「私って身体がホント弱いなぁ…なんでこんなに身体が弱いんだろ…ホントに健康体になりたい…」と自分の生まれ持った虚弱体質を憂い悩みながら、ずっと自分の弱い身体に向き合わざるをえない日々を過ごしてきました。

 

そして、いつも何かある度に「身体さえもっと強ければ○○出来たのではないか?とだけは思いたくはないなぁ…いつも身体の不調を精神力でカバーし続けるにも限界があるよなぁ…」とも心の何処かで思っていたので、私にとって「如何にして心からの健康体を保つか」ということは、生きていく上で長年の重要なテーマになっていました。

 

 どんなに無視しても、忘れたフリしても身体があらゆる症状をもってして「自分の身体」「健康」というものを嫌でも意識させてくるのです。

 

そして、当たり前のことなのですが、何事につけ、根本に身体がなければ、この世では、為すことも成せないのですよね。精神力だけでは…

地に足をつけて生きるには心の乗り物である身体を健康に保つことはホントに重要なことだなとつくづく思います。

 

そんな訳で私は、根本的な体質改善をすべく、自分なりにできそうな興味が沸いたことを色々試してきました。食事、運動、ヨガ、断食、、、、

 

どれもそれなりに自分に合っていて効果もあるし、役立つなと思うものがたくさんありました。劇的に根本体質が変わったかというとまだ道半ばかなぁと思いますが、少しずつ、でも確実に私に変化をもたらしてくれてきたように思います。

 

 

その4に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和歌のような音律の歌

 


昨日は綺麗な満月を眺めるコトができました。

少し湿り気を帯びた柔らかな優しい光をたたえたしっとりとした月明かりに感じられました。


お月様といえば、『竹取物語


TVでも放映されてましたが、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を思い浮かべます。


スケッチやクロッキーのような手描きの線のタッチと、水墨画を思わせるような余白を活かした淡い背景。徹底的に手描き感にこだわった素朴な絵で構成された表現方法が、この物語の世界観にピッタリ。


高畑監督はあえて、物語を見る側それぞれの想像力に委ねるために、リアルに描き込み過ぎずに、手描きの線の世界観に拘られたようです。


そして、「木を植えた男」などの作品で有名なカナダのアニメーション作家のフレデリック・バックさん(2013年12月24日没)にとても影響を受けていらっしゃるそう。


フレデリック・バックさんのような手描き感の作品を作りたかったと。


そして、完成した『かぐや姫の物語』を病床のフレデリックさんに見ていただきたいと自宅を1人訪ねられ、一緒に最後までソワァーにくつろぎ手を握りしめながら作品を見られて、数日後にフレデリックさんが亡くなられたという。


以前にTV番組の中で知りました。


誰かへの尊敬と憧れが原動力になり、そうして全身全霊で作り上げた作品が更に誰かの胸に憧れと尊敬の波を起こし新しい原動力となり続ける。


肉体の死を迎えたとしても、精神は誰かに引き継がれて延々と形を変えて生き続けるのだなぁと、このお二人の素敵な交流をみながら、しみじみと感動したのを覚えています。


いいですね。


さて、『かぐや姫の物語』。


私が印象深く感じたのは、劇中で多用された「わらべ歌」と「天女の歌」。


♪~ 鳥・虫・けもの・草・木・花

春夏秋冬連れてこい
春夏秋冬連れてこい

(一部引用しました)


高畑監督が作詞作曲されているそう。


子どもたちが口ずさむ歌詞とメロディーが暖かく牧歌的なかんじで素朴な響きをともなって耳に残ります。ステキな歌ですよね。


でも、印象深いのはやはり「天女のうた」


かぐや姫がふと、憶い出すように口ずさむあの音律が、同じメロディーラインと詩を元にしている「わらべ歌」とは明らかに響き方が違います。


私は音楽に詳しくはありませんが、日本的なあの独特の音律。


ちなみに私は、お三味線で長唄とかにも憧れます。都々逸とか。好きです。雅楽の響きとかも大好きだし、義太夫節なんかも好きです。


遡れば、あの日本的な音律は和歌の披講にいきつくのかしら?


なんとも言えないくらい、胸の奥がギュッとなって、あの歌だけで泣けるんですもの。なぜか。


不思議ですよね。


簡潔な言葉と音の深み。


和歌のようなあの歌には、喜怒哀楽が凝縮されてつまってて、ちょっとした拍子にこちらの感情を溢れださせてしまう不思議な作用を感じました。

 


「天女の歌」


まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ

めぐって 心を 呼びかえせ

めぐって 心を 呼びかえせ

鳥 虫 けもの 草 木 花

人の情けを はぐくみて

まつとしきかば 今かへりこむ

 

からだがあるわたし。その2

すごくややこしい話をする。

 

もしかしたら今までの私は、「身体がある」という意識がとても希薄な人間だったのではないかと、最近 やっと自覚した。

 

というより、無意識に「身体がある」ことに抵抗し続けてきたのかもしれない。

 

それは何故かと考えてみたら、無意識に「身体があることがすごく窮屈」と感じながら生きてきたからだと思う。

 

身体に魂が拘束されて、閉じ込められて、周りから断絶されている感覚、身体があるが故の不自由さ、いつも、身体という境界線が私と誰か・何かを区別し隔てているが故に感じる孤独。

 

あらゆる区別や条件に関係なく、身体を飛び越えて、精神が、心が、自分と誰かや何かの境界線を溶かして、どこまでも繋がりたいのに、身体が邪魔しているように感じるジレンマ。

 

かと思えば、心の同化が行き過ぎて、その後、自他の違いの現実を思い知っては、結果、違いを受け入れられない時に、裏切られたと感じたり、傷ついたり。もしくは、そうなるのが怖くて、身体を相手と自分を隔てる壁や鎧のようにして、心を閉じ込めて自分を守り孤立していったりするのかもしれない。

 

心と身体のズレ。
置いてけぼりを食らう、身体、もしくは心。

 

今までそんな感覚をたくさん経験してきたように思う。

 

そして、これは私独自の感覚ではなく、多かれ少なかれ誰しもが生きていく途上のあらゆる場面で経験する共通の感覚なのでは?とも思う。

 

何故なら、極端な言い方をすると、人が抱える悩みの多くは、大抵、大元を辿れば、身体性に由来するものばかりだと思うからだ。

 

人種・性別・容姿・セクシャリティ・身体能力・出自・家族構成・生育環境・貧富・生老病死など…

 

こういった諸条件は「身体を持つ」が故に発生する。

 

身体を持ったが故に発生した条件や区別に縛られながら、人は日々生きている。

 

そして、その条件は存在する人の数だけ違うし、同じものなどは1つとしてなく、存在する人の数だけのバリエーションがある。

(さらに、かつて存在した人の数だけバリエーションの記憶もある)

 

そして、「生きる」ということはきっと、自分や相手に与えられた「身体性から発生した初期設定」を受け入れた上で、いかにそれを楽しめるか、面白がれるかなのかもしれない。

 

そして、その初期設定自体を無視して否定し受け入れずにいると、徹底的に初期設定を思い出させるような出来事ばかりが起こったりするのだなぁとも思ったり。

 

当たり前のことだけれど、身体と心は切っても切れないものなのだし、身体がないとこの世では生きてはいけない。

 

そして、時に、心よりも身体の方が本当の答えを知っていたりすることもあったりする。

 

手のひらを合わせる時、自分の右手と左手が、疑いもなく同時に動きズレることなくピタリと重なるみたいに、自分の心と身体のズレが消えて一体化していった時に、きっと、色んな条件や区別からも解放されて、真実、自由自在になれるのかもしれない。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その1

最近、私の心が私の身体と仲直りし始めているのを日々感じている。

 

なんじゃそりゃ?って思われるかもしれないが、仲直りって言葉が一番しっくりくる表現だから、その通りにとりあえず書く。

 

私の心が私の身体さんに「ただいま〜」と言って、私の身体さんが私の心に「おかえり〜」って返す、そんなやりとりを、半年間くらい、もしかしたらそれよりもっと以前から、無意識に本当はやりたくて、そして少しずつやり始めていたのかもしれないなと、最近、ふと、気づいた。

 

そして、最近はそんな「おかえり〜」と「ただいま〜」のやりとりが無意識から意識的になり始めている。

 

更に、最近はそんな「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりが、前よりもできるようにちょっとずつなってきたかも?とも思う。

 

と、同時に、振り返ると以前は、「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりがすごくテキトーだったかもしれないとも気づき、思い出すにつれ「ごめん。私の身体さんよ…」と私の心は身体さんに語りかけずにはいられないのだ。

 

ぞんざいな扱いを受け続けてきたにも関わらず、健気にもいつも支え続けてくれた私の身体さんよ…

 

私の心は無言で、「ただいま〜」も言わずに、「おかえり〜」と言いたい身体さんを無視し、お腹がすいたからとりあえずガソリン補給みたいに快感中枢の感じるままに食べて飲んで身体さんに負担をかけ、お風呂もカラスの行水みたいに済ませて身体さんを丁寧に扱わず、健気に私の心に話しかけたい身体さんの話も聞かずにサッサと眠りにつき、翌日も身体さんの「いってらっしゃい〜」を聞かずに私の心は身体さんに冷たく接して生きていたように思う。。

 

まるで、ワーカホリックな旦那とそれを黙って支え続ける古風な妻みたいな例え話だけれど、大袈裟だけどそんな風にだったかもと感じた…

 

(笑)

 

このままでは、妻に逃げられる…

そして、妻に逃げられる時こそ、あの世に行く時なんでしょう…だって、心が身体さんを失う時は、死を意味する時なのだから。

 

それはイカン!(笑)

本末転倒!身体を失っては意味がない!

これでは浮遊霊だ!(笑)

 

もしくは、ただ風雨を避けて寝るだけの、最早、巣としてだけの機能と化した手入れもされない家と、その家人のような。

 

 風雨で長年傷ついたところも気づかぬふりして放置して、修理もせず、磨くことも飾ることもせず、なんだか可哀想なことをしてきたなと、一人反省会をするに至った私。

 

最近やっと、ちゃんと身体さんの声を聞きたいなぁと、身体さんを労わり、大事にし始めたら、どうやら、身体さんがそれに気づいて、身体さんも喜んでくれて、そのうち、私の心に以前とは違うように話しかけ始めてくれるようになったと感じる。

 

そんなわけで、私の心と私の身体さんのコミュニケーションがだんだんと楽しくなってきたようなので、しばしこの調子で「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりを楽しく続けていこうかなと思う。

 

そしたらきっと、私の心と私の身体さんが、いつか、長年連れ添った老夫婦みたいに、なにも言わずとも「あうんの呼吸」になる日が来るかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春支度とハレとケ②

*2015年3月に書いた文章です。

 

 

「ハレとケ」といったらセットのように「ケガレ」という言葉が登場します。


文字通り「ケ(=日常)ガレ(=枯れ)」
=穢れ=汚れという意味のことです。


「ハレ(=非日常)」とも違う、日常が枯れてしまうっていうのは一体どんな状況でしょうかね。


きっと、心身の病気や怪我、生活の困窮、身内や知人との離別、突然の災害、失業・失恋・挫折、その他諸々の思いがけないネガティヴな出来事が「ケガレ」にあたるものなのかなと思います。


そして、「ケガレ」たら、「ミソギ・ハライ」または「コモリ」をするわけです。


では「ミソギ・ハライ」「コモリ」とはどんなことでしょうかね?


例えば、不祥事を起こした不良学生が、その程度に応じて受ける処分として退学(ミソギ・ハライ)だったり、停学(コモリ)なんかを受けて、しばし謹慎・反省するってなかんじでしょうか。


そしてミソギ・ハライ・コモリの何れかを経て、再び「ハレの日」を迎えます。


不良学生の例えでいえば、ミソギコモリとして身を切るような処分の反省内省期間後に、再び新しい学校に入学し直したり、就職の道を選んだり、復学したりする日を新たに迎えるという感じです。


病気の人を例にしてもわかりやすいですね。


社会生活(ケ)→病気(ケガレ)→休職・入院・手術(ミソギ)→退院療養・リハビリ(コモリ)→復職の日(ハレ)→社会生活(ケ)


と、こんなかんじでしょうか。


そんなわけで、


ハレ(非日常の特別な日)→ケ(日常)→ケガレ(日常が変わるようなネガティヴな出来事)→ミソギ・コモリ(反省や静養・休養・勉強期間)→ハレ(非日常の特別な日)→ケ(日常)

という一連の流れで、一つのサイクルとして完結します。


この流れは日本の一年間の四季のサイクルによく似てますよね。


春に芽吹き、夏には繁り、秋には実り、豊かな収穫を迎え、そして立ち枯れた冬は、ただひたすらに地中にて春の訪れを静かに待つ。そして時はめぐり再び春がやってくるといったように。


ハレ→ケ→ケガレ→ミソギ・コモリ→ハレ→ケ→ケガレ→ミソギ・コモリ→ハレ→ケ………


と、「ハレ、ケ、ケガレ、ミソギ・コモリ」の4つの言葉の一サイクルを春夏秋冬になぞらえて、輪のようにぐるぐると延々と繰り返し循環させていこうとする人生観・死生観を、DNAレベルで無意識のうちに私たち日本人の誰しもが持っているのではないかなぁと思います。


季節は誰にでもかならず同じようにめぐってきます。例外はありません。


春になればかならず桜は咲きます。
秋になれば葉は紅葉します。


終わらない冬などなければ、永遠の夏などもないのですね。。


日本の四季ってホントに素敵。


なんだか人生の「失敗→反省&勉強→再挑戦」というサイクルにもよく似てますよね~。


しみじみ。。( ´ ー ` )


年度替わりの春はプチリニューアルにももってこいかもしれませんね。


特にこれといった生活の変化や大きな節目がないならば、あえて季節の変わり目を利用して、意図的に自分で節目的なことを設定してみるのも心機一転で楽しいかもしれませんね。


髪型をちょっと変えてみたり、カバンや靴を新調してみたり、お部屋の模様替えをしてみたり。。新しく何かを始めてみたり。


生まれ変わるには「ミソギ=身削ぎ」ありきですからね。始める前に、春支度として、少しプチ整理整頓、大掃除を今週はしようかな~となんとなく思う、春分前のそんな週末です。