「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

骨を美しいと何故思うのか、ずっと考えていた。

 

晩年、癌を患い痩せ衰えてしまった父の姿を折に触れよく思い出す。

 

よく人は、病によって痩せ衰えていく人の姿をみて憐れむが、何故だか私は病床時痩せゆく父をみてそう感じることがなかったように思う。もちろん、父の身体が以前とは見違えるほどどんどん動けなくなっていくことに胸が傷んだし辛かったが、それとは全く違う次元で、痩せ衰えていくほどに父の持つ生命力がどんどんと浮き彫りになっていく様を目の当たりにしたからかもしれない。

 

末期癌を患い余命いくばくもない父と約二ヶ月、在宅医療にお世話になりながら自宅看護をして過ごした。

 

その間、毎日のように父の身体をマッサージした。咳き込む父の背中に温タオルを当てた時に、父の肩や背中の骨がまるで別人のように浮き立っていてハッとしたことがある。

 

最早、幼い頃に自転車の後ろに乗った時に掴まった父のガッシリとした筋肉の背中ではなかったが、何故か筋肉が落ち骨が浮き立ったその背中が不思議と弱々しく感じられなかった。むしろ、浮き立つ骨の存在感に圧倒された。これが、今まで父の強い身体を支えていた骨なのかと、背中に触れながら変わらぬ父の大きさを感じたことを覚えている。

 

きっと私はあの二ヶ月間、どちらかというと即身仏のようにあらゆるものが削ぎ落とされていく美しさを父の姿にみていたのかもしれない。

そして、衰えていくほどに生きようとする姿は、まるで蝋を溶かし最後の芯だけになって燃え尽きようとする直前に、一層明るく強く燃える火のようでもあった。

 

可哀想に痩せてと嘆くこともなく、それよりもその姿にこそ生命力をより一層感じる自分の感覚はおかしいことなのかなと思い、この時の感情を書くことをずっとためらっていた。

けれど最近、女性のヌード写真を骨が浮き立つかのように上から鉛筆で塗りつぶしガリガリに痩せさせた女性の絵を描く人の作品についての記事をたまたま目にした時、とても腑に落ちた。

極端に痩せる女性の姿の中にインドの女神と同じような生命力を見つけていたのではないかとその記事には書かれていた。

 

きっと私も痩せ衰えていく父の姿の中に、その作者が感じたものと似たような光を見つけていたのかもしれない。

 

その光とは生きる力だ。

生きる力は、その人がどう生きてきたのか証を残す。その証はその人を支えた骨そのものだ。

 

人は亡くなると最後は荼毘に付される。人の身体で燃やしても朽ちずに最後まで残るのは骨だけだ。

 

長年コツコツ築いて作りあげ、その人の身体を支え続けた柱の骨だけが残る。

 

骨はその人を支えてきた全ての記憶、美しいに決まっているのだ。

 

自分を形作る骨、自分を支える骨はコツコツ積み重ねていった日々の営みそのもの。日々何を積み重ねていくか。

 

日々生きるとは骨格形成なのだ。

 

骨まで愛してとはいうが、

骨まで愛される人生を、と願う。