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「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

”死への抵抗”から”死の受容”へ、そして”今を生きる” 私的ボルタンスキー考 その1

 

今年は、瀬戸内国際芸術祭の春季で、ボルタンスキー作品の「心臓音のアーカイブ」に出会って以来、秋分の日から始まった東京都庭園美術館での個展へも足を運ぶことになり、知らず知らずのうちに、何故か、ボルタンスキー作品に導かれてしまっている私ですが、いよいよもって2016年はまさに私にとって「ボルタンスキー・イヤー」と呼べるものになりつつあります。

 

と、いうのも、再度今秋、瀬戸芸夏季から発表された新作の「ささやきの森」へと訪れる予定だからです。

 

なので、先日の東京都庭園美術館での個展は、私にとって、春の”巡礼”から秋の”巡礼”への予告編となり、あらためて、私自身を再度、ボルタンスキー作品”巡礼”の旅へと導く面白い機会となったようです。

 

図らずも、春から始まってしまった、そんな私のボルタンスキー作品巡礼の旅は、一体全体、どこに向かってどう着地することやら、、、

 

せっかくなので、ボルタンスキー作品と共に変容していく自分自身の心境の記録を、ボルタンスキーにちなみ、「アーカイブ」として、書き綴っておこうと思います。

 

 

ボルタンスキーといえば、匿名の個人・集団の生と死、存在と消滅、そして記憶という一貫したテーマで作品を作り続けているフランス人アーティストですが、よくよく思い返してみれば、私が初めてボルタンスキーを知ったのは、今から約20年くらい前。渋谷ユーロスペースにて上映されていたアートドキュメンタリー映画祭にて「ボルタンスキーを探して」というドキュメンタリーフィルムを見たのがきっかけでした。

 

その当時、暇さえあれば映画ばかりみていた私は、渋谷ユーロスペースとかシネマライズ渋谷とか単館系のミニシアターが好きで、よく通っていたのですが、たまたま予告編で流れたアートドキュメンタリーというジャンルがとても面白く、さっそく興味津々に見に行ったのです。

 

その中でも、「死の気配」がただようボルタンスキーについてのドキュメンタリーは、大量に集められた写真や古着を用いた作品が、なんとも言い難い不気味さを放っていて、当時の私は得体の知れない怖さを作品に覚えたのですが、「アートとはこういう表現で問題提起ができるものなのだなぁ」と、興味がなかったインスタレーションに興味を持ちはじめたのもその時のボルタンスキーがきっかけだったように思います。

 

以来、ボルタンスキーは、いつの間にか私の心の中にこっそりと住み続け、そして2016年、突然、目を覚ますように、ひょっこりと再び、私の目の前に姿を現わしてくれたようです。

 

ちなみに、”脱け殻”のような大量の古着を集めたボルタンスキー作品をみると、同じ頃にたまたま見た、セルジュ・ゲーンズブールの「ジュテーム・モア・ノン・プリュ」という映画を思い浮かべてしまうのだから、記憶の回路というのは不思議なものです。

 

この映画の中に、大量の古着の山の上で、ゲイのカップルが仲睦まじく会話しているシーンがあるのですが、ボルタンスキーの古着の作品とそのシーンが、何故か私の中で結びついてしまったようです。ちなみに、映画の中の古着の山は、まるで欲望を纏って着捨てた、行き場を失った肉の塊のように感じられました。

 

僧侶のような穏やかなただずまいで、祈りの場のような芸術作品を作るボルタンスキーと、欲望のまま、酒とタバコと女に溺れ、大衆作品を作った不良オヤジのゲーンズブールは、まるで正反対の存在のようですが、私の中では両者が「聖と俗」「死と生」の補完関係として、何故か融合してしまったのだから、人の記憶というのは面白いものです。

 

もし、両者に共通点を見いだすとしたら、2人ともユダヤ系フランス人であり、メタファーを用いた作品を通して、いつも全体主義的なものが押しつける正しさへの強い抵抗とか反骨精神みたいなものを表現しているところかもしれません。

 

一方は、過剰な死の表現のレクイエムとして、そして、一方は、過剰な生の表現のシャンソンとして。

 

そんなわけで、どうやら私にとってボルタンスキーの作品は「聖なるもの」と認識している記憶が元々あるようで、ボルタンスキー作品を体験することは、まさに”巡礼”という表現がしっくりくるようです。

 

たしかに、四国八十八ヶ所霊場のお遍路の地でもある香川県の、豊島まで、わざわざ作品を見るために訪れなければいけないこと自体が、まるで作品にたどり着くまでの道のりそのものがお遍路のようでもあります。

 

そして、深く「死」を見つめ、「生」を取り戻していく装置としての場というところもまた、よく似ているようにも思えます。

 

では、お遍路とボルタンスキー作品巡礼の違いは、宗教と芸術の違いはなんであるのでしょうか?

 

ボルタンスキー自身がインタビューで次のように語っています。

 

 「私の作る作品は、形としては宗教的な場所や儀式のコピーだが、美術作品はそもそも儀式的宗教的な形式なのではないか。芸術と宗教は大いに関係がある。美術館は今の時代の新しい教会だ。でも、宗教との違いは”答えを求めない”ということで、それが重要なのだ」

 

「自分は”答えのない”問いを投げかけ続けることによって作品を作っているけれど、宗教はそこに常に答えを用意している。」

 

そして、「心臓音のアーカイブ」と「ささやきの森」は「神とつながるのではなく人とつながるための作品」だそうです。

 

芸術作品の問いかけの答えは、鑑賞する人、一人一人違うものであり、その問いをどう捉え、感じ、一人一人がその答えを見つけ出すことにこそ、意味があるということなのですね。作品とは受け取る鑑賞者がいてこそ真実完成するもの。

 

ボルタンスキーが全体主義的なものを拒否し、一人一人の存在を大切にするように。

 

余談ですが、「美術館は新しい教会である」というボルタンスキーの言葉で、以前、参加したWSでの「美術館は墓場か?テーマパークか?」という問いかけを思い出しました。

 

もしかしたら、美術館とは「墓場」「教会」「テーマパーク」が三位一体となった場所のようなもの?そう考えるとなんとなくしっくりくるのは、私だけでしょうか…

 

そして、芸術祭とは「祭り」と書くように、「マツリゴト」でもあり、ある種、「変容のためのセレモニーが執り行われる場、空間、もしくは、装置」ともいえるのかもしれません。

 

それは、ある一定期間のみ夢のように立ち現れて、祭が終わると共に跡形もなく消えて無くなる、ケガレをミソグ、ハレのセレモニー。

 

そして私たちはケの世界に再び戻っていくのでしょう。

 

 

 

 

続きを後日その2に書きたいと思います。

 

 

 

 

(その2に、つづく)