「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

あたしの平成最後から二番目の誕生日

「お母さんがわたしを産んだから今日は美味しいものを一緒に食べられるんだね〜」

 

「わたしが生まれたから今日は美味しいものを一緒に食べられるんだね〜」

 

 

と、

のほほんと言いながら、今晩は親子水入らずでちょっと上等なお寿司を食べた。

 

そうだよね。

産んでくれる存在がなかったら

生まれることもないし、

生まれる存在がなかったら

産むこともできない。

 

その前に、

お父さんとお母さんが一緒にならなかったら私がお母さんのお腹に宿ることもないし、

そもそもお父さんとお母さんが出会わなければ一緒になることもない。

そして、お父さんとお母さんが生まれなければ出会うこともない。

 

だから、お誕生日はみんなとわたしにありがとうの日なのだな。

 

気づいたら、

誰かにしあわせにしてもらおうと思わなくても、いつも必ず誰かや何かが勝手にわたしをしあわせにしてくれていて、誰かをしあわせにしようと頑張らなくても、誰かや何かが勝手にいつもわたしからしあわせを感じてくれている。

 

知らぬ間にみんなでしあわせを分かち合ってる。

 

しあわせになろうと思わなくても

すでにしあわせがそこら中に溢れてる。

 

だから、わたしはただ自分らしく安心して存在していればよいのだ。世界にぽふっと飛び込めばそれだけでいいのだ。世界はおもっているよりも、圧倒的に優しいのだ。

 

私の思うしあわせは喜怒哀楽全部を豊かに感じられること。

 

嬉しい楽しいだけじゃなく、悲しい寂しいって感じられることさえしあわせの形の一つ。

 

だから、しあわせってものすごく

豊かで広くってごく当たり前のことだったりするから、ぼーとしてるとうっかりわすれちゃう。そしてそれはいつも何一つ同じ形などない。そう思うと、わたしの感じてる毎瞬は偶然だらけの奇跡のパラパラマンガなのかもと、ふとそんなことを思った誕生日。

 

父があの世にさっさと逝っちゃってから約4年。

運動会の障害物競争みたいにめくるめくだった約4年。

そんな中、父だけじゃなく平成までもがお先に失礼と言ってきた!

奇遇にも、来年平成が終わるのとほぼ同じくして実家仕舞いを完了することを決めている。なので、今年は今までの家族としての形の解体と再構築への仕上げの年となる。

あと一年で平成と実家に幕!

 

♪こんな〜時代も〜あぁ〜ったねとぉ〜、

いつか〜笑える日がぁ〜くるわぁ〜

 

♪まぁ〜わる〜ま〜わる〜、時代はまわる〜、よろぉ〜こび〜、かなしみくりかえぇ〜ええし〜

 

もうすでにこの曲が頭の中をぐるぐる回っている。。

そして、年末には蛍の光がぐるぐるまわるのだろうよ。。

 

愛着のある場所を手放すのはきっと寂しいだろなぁ〜。

 

でも、まだ知らぬ新しい場所に行くこともワクワク(まだどこに行くかも決めてないけど!)

 

平成の次が何になるのかくらい、未知!

 

やっぱり、人は冒険したくなる生き物!

 

喪失と孤独のトンネルを抜けた先には進むべき光があるさ〜!笑

 

その先になにが待ってるのかはまだよくわかんないけど、まぁわかっちゃったらつまらないからそれもよし。

 

とりあえず、荷物は少なめに軽めにしといた方がいい。ブツブツ。。

そして準備は怠らず。ブツブツ。。

 

来年の今頃、わたしが何処でなにをしていたとしても、自分がマイホームなのだから大丈夫!と胸を張って堂々と言える自分になっていたいから、やり残しのないよう悔いなく今日も感謝してコツコツ励もうと思った、平成最後から二番目のお誕生日であった。

 

 

(怠け者の上に忘れっぽいので、お誓いを書いとくこととした誕生日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春支度とハレとケ②

*2015年3月に書いた文章です。

 

 

「ハレとケ」といったらセットのように「ケガレ」という言葉が登場します。


文字通り「ケ(=日常)ガレ(=枯れ)」
=穢れ=汚れという意味のことです。


「ハレ(=非日常)」とも違う、日常が枯れてしまうっていうのは一体どんな状況でしょうかね。


きっと、心身の病気や怪我、生活の困窮、身内や知人との離別、突然の災害、失業・失恋・挫折、その他諸々の思いがけないネガティヴな出来事が「ケガレ」にあたるものなのかなと思います。


そして、「ケガレ」たら、「ミソギ・ハライ」または「コモリ」をするわけです。


では「ミソギ・ハライ」「コモリ」とはどんなことでしょうかね?


例えば、不祥事を起こした不良学生が、その程度に応じて受ける処分として退学(ミソギ・ハライ)だったり、停学(コモリ)なんかを受けて、しばし謹慎・反省するってなかんじでしょうか。


そしてミソギ・ハライ・コモリの何れかを経て、再び「ハレの日」を迎えます。


不良学生の例えでいえば、ミソギコモリとして身を切るような処分の反省内省期間後に、再び新しい学校に入学し直したり、就職の道を選んだり、復学したりする日を新たに迎えるという感じです。


病気の人を例にしてもわかりやすいですね。


社会生活(ケ)→病気(ケガレ)→休職・入院・手術(ミソギ)→退院療養・リハビリ(コモリ)→復職の日(ハレ)→社会生活(ケ)


と、こんなかんじでしょうか。


そんなわけで、


ハレ(非日常の特別な日)→ケ(日常)→ケガレ(日常が変わるようなネガティヴな出来事)→ミソギ・コモリ(反省や静養・休養・勉強期間)→ハレ(非日常の特別な日)→ケ(日常)

という一連の流れで、一つのサイクルとして完結します。


この流れは日本の一年間の四季のサイクルによく似てますよね。


春に芽吹き、夏には繁り、秋には実り、豊かな収穫を迎え、そして立ち枯れた冬は、ただひたすらに地中にて春の訪れを静かに待つ。そして時はめぐり再び春がやってくるといったように。


ハレ→ケ→ケガレ→ミソギ・コモリ→ハレ→ケ→ケガレ→ミソギ・コモリ→ハレ→ケ………


と、「ハレ、ケ、ケガレ、ミソギ・コモリ」の4つの言葉の一サイクルを春夏秋冬になぞらえて、輪のようにぐるぐると延々と繰り返し循環させていこうとする人生観・死生観を、DNAレベルで無意識のうちに私たち日本人の誰しもが持っているのではないかなぁと思います。


季節は誰にでもかならず同じようにめぐってきます。例外はありません。


春になればかならず桜は咲きます。
秋になれば葉は紅葉します。


終わらない冬などなければ、永遠の夏などもないのですね。。


日本の四季ってホントに素敵。


なんだか人生の「失敗→反省&勉強→再挑戦」というサイクルにもよく似てますよね~。


しみじみ。。( ´ ー ` )


年度替わりの春はプチリニューアルにももってこいかもしれませんね。


特にこれといった生活の変化や大きな節目がないならば、あえて季節の変わり目を利用して、意図的に自分で節目的なことを設定してみるのも心機一転で楽しいかもしれませんね。


髪型をちょっと変えてみたり、カバンや靴を新調してみたり、お部屋の模様替えをしてみたり。。新しく何かを始めてみたり。


生まれ変わるには「ミソギ=身削ぎ」ありきですからね。始める前に、春支度として、少しプチ整理整頓、大掃除を今週はしようかな~となんとなく思う、春分前のそんな週末です。

 

春支度とハレとケ①

*2015年3月に書いた文章です。

 

 

こんにちは( ´ ▽ ` )ノ
だいぶ春めいてきました♪


日に日に暖かい日が多くなってきましたね。


冬の間に着重ねた服も、一枚二枚とたけのこの皮を剥くように少しずつ薄着になりつつあります。


昨日、姉の娘で私の姪っ子ちゃんの卒園式でした。

ついこの間まで小さな赤ちゃんだったのに!

首がすわり、寝返りをうち、ハイハイをし、つかまり立ちし、歩き、言葉を発し、話しができるようになり、自我がでてきて色々自分でできるようになり、だんだん親離れし、、、

子供の成長はあっという間ですね。。
竹がぐんぐん伸びるように勢いに満ちています。みていて頼もしいものです。


姪っ子ちゃんにとってこの春は、成長過程の中の一つの大きな節目として卒園・入学といった「ハレの日」を迎えるわけです。
4月からは”晴れて”ピカピカの一年生です。


「ハレの日」といえば、民俗学者柳田國男さんが見出した時間論を伴う日本人の伝統的な世界観に「ハレとケ」というものがあります。


「ハレ(晴れ)」とは儀礼や祭、年中行事などの”非日常”を、「ケ」とは普段の生活である”日常”のことをいうそうです。


卒業入学や冠婚葬祭なんかはまさに人生で何度も訪れることのない「ハレ」の日ですね。「晴れ舞台」「晴れ着」なんて言ったりしますし。ワンポイントで起こる”非日常”な儀式としての出来事ですね。


そして、入学式という「ハレの日」の翌日から、姪っ子ちゃんは大きなランドセルを背負って学校に登下校する「ケ」としてのごく普通の日常を毎日おくり始めるわけです。。

でもその「ケ」としての日常は、今までの幼稚園生活とは違う、全く新しい日常として。


あんな小さな身体にそぐわない大きなランドセルを背負って、毎日ちゃんと学校に通えるのかしら?と、いらぬ心配をする叔母バカな私です。。(。-_-。)ぽ


新しい未知なコトには不安や心配がつきものですからね。。


でもきっと、好奇心旺盛な子どものこと。新しいことをどんどんスポンジのように吸収して成長していくことでしょう(^ ^)
「かわいい子には旅をさせろ」ですね。。


きっと今年も年度替りの春の訪れと共に、多くの人達がそれぞれに卒業・入学・就職・退職・人事異動・転勤、それに伴う引っ越しなどなどの色んな大きな節目としての「ハレの日」を経て、新しい「ケ」としての日常を迎えるのでしょうかね。


蛇が脱皮し古い皮を捨てるように、
冬の寒さをしのぐために纏った古い衣を脱ぎ捨てて。

古い衣を脱ぎ捨てる時はちょっぴり淋しいものです。。

新しい衣は馴染むまでちょっと時間がかかるかもしれませんが、新しいってそれだけで嬉しくなりますものね。


はてさて、みなさんは今春どんな新しい衣装を纏いますか?

 

夢と現実

(*2016年2月に書いた文章です)

昨日、Twitterにて気になるつぶやきを見つけた。私は善し悪しの判断抜きに自分の心にひっかかった、自分の感度が『ピン!』とか『もやっ』とするツイートはメモ代わりにリツイート若しくはふぁぼる傾向にあり、今回もそうして、とりあえずぼんやり頭の片隅にそのつぶやきを遊ばせつつも、家事を片付け、風呂に入り、何時もと変わらないルーチンの末、眠りについた。

そして、今日なんとなくTwitterチェックをしていると、昨日気になったつぶやきに直接関連性があるかわからないけれど、私にとっては関連性を感じる別の人のつぶやきをたまたまみつけた。

両ツイートに共通するキーワードは、『夢・幻想』と『現実』。

一方は『現実』をふまえつつも『夢・幻想』を肯定し、もう一方はどちらかというと『夢・幻想』に否定的で、超『現実』重視。

なるほど、面白いなーと思った。

『夢・幻想』と『現実』。

 

『こーしたい、あーなりたい』と想像をふくらませ『夢』をみることが、その『夢』を『現実』にする種になる。一方で、その想像するきっかけは『現実』を生きるなかで生まれる。

『鶏が先か卵が先か』ではないけれど、其れに似た禅問答みたいな話に思える。

『咲くから枯れる』のか『枯れたから種ができ咲く』のか。

『食べたから排泄する』のか『排泄したからお腹が空き食べる』のか。

『生まれるから死ぬ』のか『死ぬから生まれ変わる』のか。

うーむ。。やはり禅問答(笑)

ウロボロスの蛇じゃないけど、ただ一つに内包されている真逆が”同時に在る”だけで、切り分けるか切り分けないかなだけなのかもしれない。切り分けた時、切り口の一方が『夢』で、もう一方が『現実』という名を名乗りだす、ただそんな感じかもしれない。

『夢』と『現実』を考えるときいつも思い出すのが漫画『BANANAFISH』文庫本第2巻のあとがきに掲載されていた俳優の渡辺えりさんのエッセイの一文。好きなので最後に引用して〆としましょう。


「精神世界に泳ぎながらも、どうしようもない現実の力に押しつぶされ、あがき、はいつくばり、芝居を造り続けていた。夢見る力を得るためには、夢見の作業が現実逃避となってはならないと考え始めた頃だった。

現実から逃れるためではなく、きびしい現実を認識し自立するための夢想でなくては、生きて創造を続ける意味はないと考えていた。」


はてさて、今日も現実を生きて、想像=創造いたすとしましょう!

桃の花

 


立春、旧暦元旦(春節)もすぎると、だんだんと春に向かっていく気配を感じ始めます。


私はお花がとても好きなんですが、


お花は、暦の節目毎の行事に欠かせない、季節の移り変わりを身近に感じることができるごくごく身近な自然ですよね~。


そして、冠婚葬祭、お祝い、お別れ、あらゆる人生の節目には欠かせないもの。

 

嬉しい時も悲しい時も、特別な時も普通の時も、人生のハレとケを彩るニュートラルな存在。いつも必ず寄り添っているもの。そして、咲いたら散る、枯れる、儚いもの。儚いからこそ美しい。

 

もし世界に花がなかったなら、なんて世界は殺風景なんだろうとさえ思います。

 

お正月には南天や千両や松、
水仙や葉牡丹。

春になる前は椿や梅。

雛祭りには桃の花。

やがて桜の季節が巡ってきて…

菜の花・ラナンキュラス・チューリップ・芍薬

端午の節句には花菖蒲。

母の日にはカーネーション

薔薇の季節がやってきて…

ブーゲンビレアクレマチス

梅雨は紫陽花。

七夕には笹の葉。

朝顔の蔓が伸びる頃…

お盆にはホオズキ

向日葵が元気に咲いて…

竜胆・秋明菊彼岸花・吾亦紅。

重陽節句には菊の花。

中秋の名月にはススキ。

ケイトウフォックスフェイスハロウィーン

再び薔薇の季節が巡ってきて…

コットンツリー・クジャクヒバ・山帰来・ヒヤシンスでクリスマス。


あ~、書いてるだけで色んなお花が思い浮かびます~♪


最近じゃ、花や野菜や果物の季節感がなくなって周年みかける花が増えたとはいえ、こう書き連ねるとやっぱり季節を感じますね。特に日本には四季がありますから。やっぱり、お花は生活に欠かせないなぁ~。


2月をすぎたこの時期になると、3月3日の桃の節句にむけて、だんだんと桃の花をお花屋さんでみかけるようになりますね。


3月3日のお雛祭りはひと月後ですが!早い!


桃の花の花言葉がまたいいです。

「天下無敵」
「チャーミング」
「愛敬」

「あなたに夢中」

 


ちなみに桃の花はバラ科です。


桃の花といえば果物の「桃」を連想します。大好きなんですよね~。瑞々しくて美味しいです。夏の定番です。


以前、真夏に買い物帰り、駅前で托鉢中のお坊さんに買ったばかりの桃をひとつ暑そうだったからなんとな~く喜捨させていただいたら、家に帰ると桃が一箱どーーんと知り合いから送られてたというおもしろいことがありました。


特段、関連性はないんでしょうけど、なんだか帰ったら桃が味もグレードアップしておまけに倍以上に増えてて、マジックみたいで得した気分で楽しかったです。


いつも桃の花を見ると連想して思い出すエピソード。

 

そして、桃の花→桃→桃太郎→鬼ヶ島→鬼退治と、めくるめく連想ゲームがとまらなくなりますが(汗)

 

それから桃といえば、不老長寿、桃源郷って言葉も思い出したり。

 

桃を食べると不老長寿になれるという由来が昔あったとか。如何に人は、不老長寿を求めているか…ははは

 

あと、桃源郷ってなんだろうと改めて調べてみると、大抵が理想郷・ユートピアのことと書いてありましたが、「ユートピアとは似て非なるもの。ユートピアの崩壊後に姿を現わすもの」としている説もあって、私はなんとなくこの説にグッとくるものがありました。

 

「〜♪ 海の彼方にはもう探さない 輝くものはいつもここに わたしのなかにみつけられたから」千と千尋の神隠しの歌詞を桃源郷の説明に引用していて、なるほどなぁ〜と思ったり。

 

「そっか、桃源郷って自分の外の遠くじゃなく、いつも自分の中に常にあるのかぁ〜」と。

理想郷に向かって外に求めていった果て理想が崩壊した時、ホントは内側に桃源郷はあったんだねって気づくということか…

 

話がどんどん脱線しましたね(笑)

連想のまま書いてたらこんなことになってしまいました(汗)

 

ちなみに、千と千尋の神隠しの「いつも何度でも」の歌詞、改めて読んでみるとすごくいいですよ。

 

ちょっと早いけれど、桃の花でも飾ろうかしら。桃の季節はまだだけど、眺めてるだけで桃を味わってる気分になれるかもね~。

 

節分って本当は何だろ?って考えてみました。

 

(この文章は2016年2月にかいた 文章です)

 

「花は花。花の形を問うものなどいやしない…」(独り言)

 

早いもので、今日から2月!そして、そろそろ節分ですね~。


すっかり世間は恵方巻きとバレンタインデー商戦一色ですけどね…(^▽^;)


さて、節分といえば「鬼は~外!福は~内!」って豆撒いて年の数だけ豆食べてって感じくらいの行事でしか頭にないですけど、ホントはどーなんだろ?


Wikipediaでザックリ調べると…


季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。
~中略~
豆(魔目)を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い一年の無病息災を願うという意味合いがある。


とのことです。なるほど。。


節分って丁度、立春の前日。
そして、今年は1月28日が旧暦元旦。
なので、旧暦だと丁度今は新しい年が始まったばかり、季節の変わり目ともいえますよね。年末年始の邪気払いという訳か。


ところで、邪気=鬼だそうですが、そもそも払おうとする邪気=鬼ってなんなんでしょうかな?


そう考えてパッと思い浮かんだのが、積ん読状態になってた内田樹さんの『呪いの時代』

 

『すべては自らかけた
「呪い」から始まった。

他人を呪うことは、自らを呪うこと。「ほんとうの私」なんてどこをさがしてもいない。そろそろ、ありのままの自分を受け入れて、もっと自分を愛そう。そして、他者にも祝福の言葉を贈ってみよう。それが「呪い」を解く鍵なのだからーー』

 

…題名と帯文句がすごいですよね
( ̄◇ ̄;)


数年前、インパクトがあって今の時代を絶妙に言い当てられてる感じがして、面白そうだなと本屋さんで即買いした本。


斜め読みして積ん読状態だったんですが、なんか「呪い」って言葉と「鬼」って通じる気がしました。。


「呪い」っていうとオドロオドロしくて嫌な印象の言葉なので、「間違った思い込み」とか「手錠」って言葉に代えても良いかもしれませんね。


自分で自分に勝手にかけた「呪い=間違った思い込み=手錠」。


「私はどうせ○○だから、○○なんてできやしない、○○してはいけない(資格がない)」
…こういう感じでしょうかね。


で、そういう「呪い」的思考パターンって、大抵、罪悪感に由来していて。


自分への罪。そして罰。


でもね、そんなもの相当倫理観に背いた事じゃない限り、よっぽどじゃなきゃないようにも思ったり。自分で勝手に罪と罰の手錠かけちゃってるだけなんだ。


大抵、世間や他人のものさしで「良し悪し」を図って罪にしたり、罰にしたりしてるんじゃないだろうか。。


それを「正義」とか「正しさ」ってしてしまうと、自分の素直さが時に罪のように思えてしまうことがでてきてしまったり。


結局、本当の「正しさ」なんてないんだ。
「正しさ」じゃなくそれぞれの「素直さ」しかないんじゃないだろか。


理屈抜きに自分がいいなぁって感じたその感覚だけが紛れもなく自分にとっての真実なのだし、思うことそれ自体は罪ではないからすなわち罰もない。。


昔、ガリレオガリレイが天動説主流の世の中に「それでも地球は回ってる!」とどんなに糾弾されたとて地動説を唱え続けたように。


…ちょっと逸れましたが、「呪い」って、「自分の真実に目を瞑り、忘れたふりをし自分を騙すこと」なのかも。それは誰かに「呪い」をかけられるのではなく、知らず知らずの内に、自分で自分に勝手にかけたもので。


でも、自分で自分にかけたのだから、自分で解くこともできるのだと思うし、最後の最後は自分でしか解けないんだと思う。


それから「呪い」をかけられるのなら、「魔法」だってかけることもできるのかも。「魔法」=すなわち「良い思い込み=何処でもドア?(笑)」


でも、「呪い」に一度かかったからこそ「真実」に気づくって逆説もあるから、「呪い」が一概に悪いともいえない。。「魔法」が勘違いの「全能感」に結びついてしまうことだってある。。


ぐるぐる…(^▽^;)


なんだか小難しい話になっちゃいましたが、節分で払う邪気=鬼って、きっと、自分自身で自分にかけた「呪い」なんじゃないかなぁ~と思ったのでした。


で、「呪いよ、あっちいけー!」ってより、「本心に気づかせてくれてありがとー!」って払うのはどうかしら?
だって、その鬼はなんやかんやいっても今までの自分自身で、愛着や居心地の良かった鬼だったわけだし。ははは(^_^;)


鬼を払わない神社とか宗教もありますしね。

「コンチキショー!」でもまぁいいですけどね。スッキリするかもね(笑)


そんなわけで、節分前にこんなことを思ったわけでした。

雪を想う

(2016年1月、年始に書いた文章です)

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

一昨日、大雪が降りました!


数日前の春の様な陽気がウソだったように朝眼を覚ましたら一面の銀世界。


私はそれを見て小躍り!
「長靴用意して新雪にサクサク足跡つけながら出かけるぞ~♪」と朝からときめいてました。


一方で、雪にめっぽう弱い首都圏…


その日は交通機関が完全麻痺状態…
朝の地下鉄は他の運転見合わせの路線から乗り換えてきた人やらダイヤの乱れやらで大混雑…


でも、毎度毎度思うのですが、日本人はエライ!雪だろーが嵐だろーが地震の翌日だろーが、頑張って早起きしてでも出勤するものね。


自分も含め!(笑)


結局、雪はすぐ雨に変わり…

雪溶け翌朝の残雪による路面の凍結の方が、結構厄介なんですよね~。


朝の通勤通学時の老若男女たちが、足もとを気にかけながらソロ~リソロ~リ、うっかりスッテーンといかないように恐る恐る歩幅を縮めて歩く姿がなんとも可笑しい光景で。


そうそう、付け入る隙のない程全身カッコよくきめたビジネスマン風の男性が、ヒヤッとしながら歩幅を縮めヨチヨチ歩きする姿がなんともカッコ悪くって!


その急変ぶりが可笑しく、思わず和んじゃいました(^ ^)


普段みられない完璧が崩れさる瞬間(笑)


そういう時、一瞬のカッコ悪さの中に素の姿を垣間見れて、何故だかぐっとその人に近づけた様で嬉しくなっちゃいます(笑)


そんな姿があちらこちらで露呈してしまう雪の日。


だから、私は雪の日はやたらニヤニヤしながら歩いてます( ̄▽ ̄)


首都圏の降雪は非常事みたいなものだからでしょうけど、雪って普段は見えないものをその真っ白さで浮き上がらせるみたいにハッキリみせてくれるようなマジカルな作用があるのかもしれませんね~。


私は小さい頃、北海道に住んでいたので雪には多少は慣れていますが、都心と北海道では雪の質が全く違います。


都心の水分量が多いベチャ雪とは違って北海道はサラサラしてます。降雪が突発的ってわけでもないし、数ヶ月間降り積もった雪が溶けず、雪の中の日々が続きますし。だから、寒さ対策としての家の構造も、服装も、生活様式も全然違いました。


思えば生まれて以降、私が「雪」をハッキリ認識した瞬間は、8歳の時だったかもしれません。

 

小2の春休み。

父と次女の姉と私とマルチーズのチャッピー、3人と一匹でトラックで引っ越しをした時のこと。

夜明け前、飛行機で別々に移動する母と長女の姉が見送る中、父が運転するトラックの助手席に乗り込んで、住み慣れた団地を後に北海道に向けて出発しました。

トラックはフェリーに乗るため八戸に向けて東北道をまっしぐら、丸一日かけて走り続けて、真夜中に八戸到着。

大揺れのカーフェリーの船中で一晩すごし、ウトウト眠りにおちている間に海を越え、北海道に渡っていました。ようやく苫小牧に辿り着いてフェリーを降りると、朝一の北海道は一面に広がる銀世界。

 

その時の驚きと感動は未だに忘れられません!


こんなに雪深い世界は生まれて初めてでしたから。朝日に照らされたモコモコの真っ白な雪がキラキラキラキラ光っていて、眩しくって、外は気持ちが良いくらい空気が凜と澄んでて、雪は冷たく粉みたいにサラサラして。


こんな綺麗な世界が存在してるんだなぁと。


春とはいえ、北海道は雪解け前でしたからね。目の前の別世界に「これからここで暮らすんだ!」とワクワクしたものです。


そんな風に雪と出会ったせいかどうかわかりませんが、私は雪が”理屈抜きに”大好きなのです。


出会い方のインパクトがあったからかもしれませんし、もしかしたら無意識に、父の故郷だからかもしれません。


雪は綺麗だけれど怖いものでもありました。激しく吹雪いた時や降り止まずいつまでも積もる時などは命の危険さえ感じるくらい、雪はいとも簡単に世界を真っ白に埋め尽くしました。


一方で、あたたかくもありました。
北海道の冬のお家の中はとてもポカポカです。家のストーブを途切れることなくずっと焚き続けているからでしょう。寒さが厳しいので夜も火を切らさないのです。

周りを雪に閉じ込められることで、一層、暖をとり暖め合おうとするかのようで、どのお家に行ってもストーブに灯された火の温もりがホントに心地よかった。


雪深く自然に囲まれた北海道での暮らし。一番のびのびしていたかもしれないなぁ。


子ども時代の自分にとってはまるで夢の世界のように楽しかったですが、一方で、親にとっては厳しい現実だったようです。


そんな北海道での暮らしはまさに夢のように短く、再び本州へと引っ越してしまいましたが。


それにしても雪。


もうそろそろ溶けて、またいつものような日々に戻ってしまうなぁ。


それでもきっと、懲りずにまた雪が降るのを待ち望んでしまう私でしょう。


ベチャ雪でもどうやら雪は嫌いになれそうにありませんね。


( ´ ー ` )