「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

一番身近な自然

(*2016年2月に書いた文章です)

自然と向き合う。
自然のなかで暮らす。

そう問われた時、大抵は、木とか森とか山とか川とか海とか、そこに暮らす野生動物とか自然環境保護だったり、都心での緑化とか家庭菜園、ナチュラルライフ的なことを思い浮かべることかと思う。

自然の中に身をおくことは気持ち良いものだけれど、都心近くに暮らしていると、よっぽど意識しなければ、そういう環境に日常的に身をおくことはなかなか難しい。

それに、”本当の自然”のなかで暮らすことは、案外そんなに容易いことではなかったりする。
思うようにいかない不便で不自由なこと、手間がかかることもきっと圧倒的に多いだろう。。
自然ってお手軽ではないのだ。

でも、よくよく考えると、実はそういう環境にわざわざ身をおかずとも、自分はすでに自然の中で自然に向き合って暮らしているよなと思うことがある。

例えば『老い』。

共に暮らす母親に日々接していると、当たり前だけれど『人間は老いるものでそれが自然なんだ』と否が応でも実感する。

だんだん耳が遠くなり、だんだん目が見えづらくなり、だんだん忘れっぽくなり、だんだん歩く足取りがおぼつかなくなり、だんだん体力が落ち、だんだん身体がちいさくなり、だんだん髪の毛が白くなり、だんだん行動範囲が狭まる。

去年は一緒に行けた旅行先が、今年も行けるとは限らない。
ほんのちょっとしたことで衰えが早まる事もあって、もう体力的に無理かもなと、だんだん”できなくなる”ことが目に見えて増えてくる。

もとに戻るとか、良くなることはないので、こちらが受け入れてあわせる意外ないのだ。

確かにその都度、状態にあわせてこまめに生活を見直さないといけないので、面倒だったり不自由に感じることもあるけれど、「まあ〜そんなものだ」といい感じに諦めてしまえば案外喜楽なものだ。

いつもつっこみどころ満載なので、母との日々の暮らしはコントしているようにすら感じる。

案外、年をとるのも悪くないのかもしれない。
それは最も自然なことだから。

私の太陽

(*2015年7月に書いた文章です)

 

昨日は土用の丑の日でした。


確か、暑気払いとして、うなぎを食べるということだったか。


いよいよ夏本番の暑さになってきた。


白昼、ジリジリと照りつける陽射しが肌を焼き、汗がじわりと吹き出し滴り落ちる。


緑は青々と繁り、生き物の熱量が絶頂に達する真夏は、同時に死者の季節でもある。


夏はお祭りが多い。


腹に響く太鼓のリズムに合わせ、蒸し暑い闇夜に明かりを灯し、ご先祖さまたちとぐるぐると輪になって、歌いながらゆったりと踊る盆踊り。


メメントモリ

死を想え

という言葉があるが。

 

真夏は太陽の恵みを目一杯受け、生命力をみなぎらせるからこそ、その源である、死者に、先祖に、そして故郷という自分のルーツに思いを馳せてしまうものなのかもしれない。

 

私は長らく、故郷コンプレックスをもっていたように思う。


幼い頃から引っ越しが多く、住む場所を転々としてきたためだろう。


それ故か、理想の故郷に憧れ、家族の絆に拘り、人一倍それらに執着してきたようにおもう。


何処にいても、誰といても、いつも根無し草で、アウェイ感を拭えずにいたが、ここのところ、ちょっと心境が変化しつつあることにやっと気づいた。

 

「あぁ、そうか、自分がいる場所が常に故郷でそこで出会う人がみんな家族みたいなものなんだよなぁ。。」と。

 

そう気づいた時に、今まで暮らしてきた、通り過ぎた、色んな土地のすべてが故郷で、そこで出会ってきた人たちみんなが家族だったんだよなぁと、


これから行くかもしれないであろう色んな土地と出会う人たちのすべてが既に故郷で家族なんだよなと、ごく自然に思えたのだ。


きっと今までだったら、理想の故郷を求めて、いつまでも世界の最果てまで探し歩き続けていたかもしれない。そして、手に入れた故郷を手放すまいとしがみついたかもしれないし、離れた人たちとの別れをずっと悲しみ続けていたかもしれない。


でも、もうそんなことはしなくてよいのかもしれない。


以前、けだるい逆回転という記事で、「太陽が東から昇って西に沈むのではなく、地球が西から東へ左回転しているのだ」と書いた。


太陽は動いていないのだ。


太陽は微動だにせずにただそこにいて燃え続けている。地球や水星や金星や火星たちが周りをくるくる回っているだけなのだ。


それらに例えるなら、自分が太陽で、故郷が太陽の周りをくるくると左回転する地球や水星や金星や火星たちなのだ。


風景は動きつづける。
だから場所としての故郷はいつも変わり続ける。

けれど、自分自身はいつも「ここ」にいて脈打ち続ける。変わらない。


自分自身が不変のマイホーム。


そんな風に気づいたら、もう何処にいったって堂々と、我が故郷顔して、馴染んで楽しんでしまえばよいと。


そして、いつも新しい土地に行くたびに、出会うであろう人たちが、きっとやっと会える新しい家族なのだと。


故郷と家族とつながる合言葉は、やっぱり
「ありがとう」と「こんにちは」だろね。


そう思えたら、目に見えない鳥籠みたいなものからやっと解放されたように思えて、ようやく地に足がちゃんと着いたように感じた。


家族と故郷。


他人同士が作っては解体し、作っては解体していく一瞬のあったかい夢のようなもの。


当たり前のようだけど、奇蹟みたいなもの。

あらためて、ご先祖さまに感謝したくなった。


しみじみ。

善玉菌と悪玉菌

ドス黒さを

ちゃんと飲み込んだ

 

ドス黒さの

そのドス黒さを

あぁ、ものすごいドス黒ーいと

認めちゃったら

なんだか少し

スッキリした

 

あるものを

ないものになんて

できないし

 

黒いものを

無理矢理

白いものに

する必要なんて

ないんだ

 

 

善玉菌と

悪玉菌

両方とも

なきゃ困るし

共生してる

お腹の中で

 

ドス黒さを

飲み込めたなら

善玉菌を増やさなきゃとか

悪玉菌を減らさなきゃとか

そういうの

だんだん

どうでもよくなってきた

 

悪玉菌は本当に悪いのかな?

善玉菌は本当に良いのかな?

 

それさえも、なにか違う気がする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玉虫色

心、

体、

感情、

状況、

日常、

時間、

空間、

夢、

私を構成する

色んなものの

砂つぶが

水の中を

断層のように

虹色に重なりあって

入っている

私という小さな器

 

大きくてするどい匙が

断層を突き崩すように

底辺から

かき混ぜて

虹色の層は崩れて

色とりどりの砂つぶは

バラバラに

水の中

ふうわりと

舞い上がり

水の中

漂って

玉虫色に

混じり合って

浮遊しながら

段々と

再び

底辺に

玉虫色の砂つぶが

ゆっくりと

沈殿していく様を

ただ

見つめている

 

私という

小さな器の中の

水の

一番上澄みが

無色透明になるまで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一瞬の瞬き

 TwitterFacebookInstagram、ブログ…今の時代欠かすことのできないSNS色々。

 

老若男女、公私、喜怒哀楽、個々人が思い思い、どこに届くかもわからない、どこに届けるわけでもなく、毎瞬毎秒、つぶやき、洩らし、語り、吐き出し、何かを電波にのせて表現している。

 

改めて、SNSというのは面白いものだなとしみじみ考えていた。顔も見たことも会ったこともない、遠く離れた知らない誰かと、電波を通じて浅くも深くも良くも悪くも何かを共有し交流することができるのだから。

 

誰かが何の気なしに発した表現が、私が何の気なしに発した表現が、いつの間にか遥か彼方の知らない誰かに届いている。

 

それはまるで光の瞬きのように一瞬キラッと光って、そしてたちまち消えていくのにもかかわらず。車窓から眺める景色のようにしっかり見つめなければたちまち通り過ぎていくような速度で。

その一瞬の光を流れ星のように見つめるか、たくさん瞬く星の中の視野にほんのすこし入っただけの極く小さなただの光の1つにすぎないと見つめるかは人それぞれだけれど。どんな光を見つめ捕まえるかも人それぞれで。

 

それでも毎分毎秒、たくさんの想いが込められた”つぶやき”や”表現”がキラキラととめどなく今この瞬間にも、自分では知り得ない宇宙のようにどこまでも広がる果てのない漆黒の空間で、ぽこぽこと産み落とされては、小さく光って消えて、小さく光っては消えて行ってる。そんな力強くも儚く流動的な世界に私はいるのだなと思ったら、こうして生きていることがなんとも言えない気持ちになった。

 

ほんのすこし接触するだけの一瞬のたわいもない出会いもあれば、意図せずに、思いもよらなかった、たまたま見た言葉やメッセージ、その人との交流が深く心に響き、いつの間にかその時の自分の人生に深く影響している時もある。

 

今日、たまたまSNSを見ていて改めて、そんな”初心”を思い出すツイートを見つけたので、備忘録としてその時に思い出したことを書き残して置きたい。

 

そのツイートは、作家さんを褒めて応援して育てていくことの大切さみたいなあたたかな内容だとか、やる気をもらった嬉しかったなどといった内容。

 

それを読んだ時に、ふと思い出したことがあった。

 

今でこそ、SNSを通じて自分の作品や活動、自分が思っていることをあてもなく発信したりしながら、色んな方と交流したりすることがごく当たり前のようにできるようになった私であるけれど、よくよく振り返れば私のSNS歴はとても浅く、使い始めたのは2015年の1月末からで、それまではSNSとは一切無縁の生活を送っていた。

 

それまで頑なにSNSを使うことをしてこなかった私が、心境の変化もあり、2015年1月末から何の気なしに何もわからないままにコソコソ密やかにTwitterやらブログやらを使い始めた最初の頃、今でも忘れられないとても嬉しいことがあった。

 

ブログを始めたばかりの当初、仕事上の作家としての表現と発信の場として立ち上げたのが主な目的としつつ、お気楽にその時におもっていることやらもつらつらとりとめなく書いたりつぶやいたりもしていた。

 

本当にどこの誰が読んでくれるのかもよくわからない、何を手掛かりに私のブログに辿り着いて読んでくれているのかさえもわからないけれど、ポロポロと誰かがアクセスしてくれているのがだんだんわかってきて、電波とはなかなか面白いなと思い始めていた。

 

けれど、まだ沢山の人と繋がるわけでも交流するでも反応が返ってくるわけでもなく、ほぼ無反応の独り言状態でもあった。

 

ちょうどSNSを始めたその頃、試行錯誤を重ね10年もの年月をかけて作り続けていた作品がようやく完成形に近い表現にやっと辿り着いた手ごたえを感じていた時期でもあり、さっそくSNSを通じて誰かに見てもらえたらいいなと、まぁどうせ反応薄いだろうけれど、期待もせずにとりあえずブログに作品をアップしてみることとしたのだ。

 

後日確認すると、そのブログを見た人が初めて1人だけ、”イイね”をしていてくれていた。

 

そう、たった1人だけ(笑)

 

けれどその時の私にとっては、1000人、1万人にイイねされるくらいに、それが本当に嬉しかったのだ。

 

その作品自体を全く知らない人に見てもらうことが初めてだったし、その作品にたどり着くまでにたくさんの試行錯誤と紆余曲折があったので、たった1人だけの”イイね”がその時の私には本当に嬉しかったし、作品を描いていくうえでとても励みになったのだ。

 

もしかしたら、その時の”イイね”はその人にとっては何の気なしのものだったかもしれないし、”イイね”をしたことなどもすっかり忘れてしまったかもしれない。

 

徹底的に自分と作品に向き合い、何かを作り続けることは、作り続ける限りいつまでも終わりがなく、いつもとても孤独だなと思う。だからこそ、他者に作品表現を受け取ってもらって、やっと本当に作品が仕上がるのだといつも思っている。だから、その時は本当に嬉しかったなぁと、そのツイートをみた時、あの初めてSNSで反応が返ってきた時の気持ちをつい思い出してしまったのだ(笑)

 

あの時の、一瞬の瞬きのような触れ合いに、改めて感謝したい。

 

そして、今もこうして色んな方に陰ながら応援していただいたり交流できることにも改めて感謝したい。

 

さて、これからもコツコツ自分らしく素直に、表現し続けるべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その4 弱さという強さ②

私は長年、生まれながらの虚弱体質から脱却すべく、今まで色んな方法で体質改善を自分なりに試してきました。

 

けれど最近になって、本当は「方法」よりも「在り方」の方が大事なんじゃないかなと、思うように至りました。

 

今までの私は、確かに、身体に良さそうな色んな方法や手段を沢山試してきた甲斐もあって、以前よりも身体が強くなったし、そう実感もしています。

 

けれど、本当に心身の健やかさを実感できているかと自問してみたら、どうもそうは感じられないのです。これだけ色々やってきているのにも関わらず、なぜなのだろう?根本的な何かが、どうも違うのだよなぁ…という感覚がいつまでもつきまとっていました。

 

そして、つい最近になって、一番根本的な問いにようやく突き当たりました。

 

「そもそも私は、自分の身体を愛しているだろうか?」と。

 

私は病気がちで自分の思い通りになかなかならない身体をいつも無理矢理力ずくで動かしてきたのではないだろうか?思い通りにならない身体を好きになれず、今までずっと嫌ってきたのかもしれない…と思いました。

 

弱い身体を好きになれず、必死に別の強い身体になろうとしてきたのかもしれないと。

 

そんな私だから、自分の身体を労ろう、大切に扱おう、身体の喜ぶことをしようという発想になるはずもなく、身体を如何にして自分の思い通りの健康的な状態にコントロールできるか、いうことをきくようにするかと、そんな風に身体に接してきたのかもしれません。

 

本当に女子らしからぬ身体の扱い方ですよね。。(汗)

 

いくら一時的に健康であったとしても、常日頃、身体を愛し大切にできていなければ、身体は健康を保てるはずもありません。美しく咲いた花でさえ、世話をせず愛でずに無視し続ければすぐ枯れてしまうのと同じです。

 

この歳になってようやくそんな当たり前のことに、やっと気がついたのです…(汗)

 

そう気づいたら、急に私は身体さんに申し訳ない気持ちで一杯になりました。

今までどれだけ身体さんは私のために健気に頑張ってきてくれただろう…

 

身体さん、ごめんね…

 

今からでも遅くはない!身体さんとちゃんと対話して好きになりたい…

 

そんな訳で、改めて昨年秋頃から意識的に自分の身体を労わり、丁寧に向き合うことを心掛けることを少しずつ始めたのでした。

 

それは本当になんてこともないことで。

 

お風呂にゆっくり入ったり、丁寧にオイルマッサージをしたり、時々ヨガをしたり、散歩したり、身体によい美味しいものを食べたり、着たいなと思った服を着てオシャレを楽しんだり、美容室でヘッドスパしてもらったり、夜寝る時にアロマオイルの香りで癒されたり、疲れたら無理をせず、温かくして、よく休んだり眠ったり、、、

 

身体の声に耳をかたむけ、身体を可愛がるように大切に扱い、身体が心地よいと感じ喜ぶことを思いつく限り色々楽しんでやってみました。

 

おお!なんて女子な生活!(爆)

 

意識的にそんなことを始めてみると、如何に自分は今までそんなことさえもちゃんとしてこなかったのか、、、

しみじみ気づかされたものです。

とほほ。

 

そして、そんな生活を意識的に始めてから約半年。この春にビックリするような変化が身体に現れたのです。

 

なんと、突然の皮膚疾患を発症したのです!

 

え?丁寧に大切にしてきたのに病気になっちゃったの?全然だめじゃない?って思われたかもしれません。

 

けれど、私は皮膚疾患が現れたことを密かにチャンスかもしれない思っていました。そして、私の身体さんに感謝していました。

 

なぜかというと、その時私は、身体の”大掃除・デトックス”ができる大きなチャンスがやってきたと思ったからです。

 

 

その5に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その3 弱さという強さ①

私には長い間、身体的劣等感があったように思います。

 

それは外見的なものというより、「元々もつ身体の力が弱い」という劣等感。

 

元々私は小児喘息持ちで、季節の変わり目などには必ず風邪をひき、その度に喘息の発作を起こし、いつも学校を休みがちな虚弱体質な子供でした。

 

一度発作が起こると、生きた心地がしません。まともに呼吸ができなくなるのです。いつもこのまま呼吸ができなくなって死んでしまうのではないかと思いながら、何も出来ず布団の中で小さくうずくまり、うつ伏せになりながら背中でなんとか必死に呼吸をして、ただただ早く発作が過ぎ去ってくれないかと、朦朧とやり過ごすことしか出来なくなるのです。

 

なので、発作が起こるとすぐ緊急で病院に連れて行かれ、いつも吸入器のお世話になりました。吸入器をかけた後は、あの発作がまるで嘘のように呼吸がスムーズにできるようになるのです。

 

私にとって、吸入器はまるで魔法のようなものでした。

 

そんな訳で私は、頻繁に病院に通っては大量のお薬に頼るということが当たり前の子供時代を過ごしてきました。

 

そして、段々と成長するにつれて体力もつき、女子なので思春期頃には月のものも始まり、身体の自然な変化に伴っていつの間にか小児喘息の発作が起こることもなくなりました。

 

喘息が起こらなくなり、長年の病院通いやお薬を飲むことから解放されたことは私にとってとても大きなことでした。それ以来私は、子供時代の反動もあってか、病院通いもお薬に頼ることも殆どしなくなりました。

 

というのも、子供の頃、体調を崩す度に処方される大量のお薬を飲むことが毎回すごく苦痛で、嫌気がさしていたことと、子供ながらに、なんでこんなにお薬は不味いのか、そして、なんでこれほどまでに大量のお薬を飲んでいるにもかかわらず、一時的に治ってもまた度々病気になるのか、病気が完治しないのか素朴に疑問だったのです。そして、薬に依存し続けたくなかったのです。

 

小児喘息は自然と治ったとはいえ、その後は身体の別の不定愁訴に度々見舞われるようになりました。その度に、あいも変わらず「私って身体がホント弱いなぁ…なんでこんなに身体が弱いんだろ…ホントに健康体になりたい…」と自分の生まれ持った虚弱体質を憂い悩みながら、ずっと自分の弱い身体に向き合わざるをえない日々を過ごしてきました。

 

そして、いつも何かある度に「身体さえもっと強ければ○○出来たのではないか?とだけは思いたくはないなぁ…いつも身体の不調を精神力でカバーし続けるにも限界があるよなぁ…」とも心の何処かで思っていたので、私にとって「如何にして心からの健康体を保つか」ということは、生きていく上で長年の重要なテーマになっていました。

 

 どんなに無視しても、忘れたフリしても身体があらゆる症状をもってして「自分の身体」「健康」というものを嫌でも意識させてくるのです。

 

そして、当たり前のことなのですが、何事につけ、根本に身体がなければ、この世では、為すことも成せないのですよね。精神力だけでは…

地に足をつけて生きるには心の乗り物である身体を健康に保つことはホントに重要なことだなとつくづく思います。

 

そんな訳で私は、根本的な体質改善をすべく、自分なりにできそうな興味が沸いたことを色々試してきました。食事、運動、ヨガ、断食、、、、

 

どれもそれなりに自分に合っていて効果もあるし、役立つなと思うものがたくさんありました。劇的に根本体質が変わったかというとまだ道半ばかなぁと思いますが、少しずつ、でも確実に私に変化をもたらしてくれてきたように思います。

 

 

その4に続く