「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

一瞬の瞬き

 TwitterFacebookInstagram、ブログ…今の時代欠かすことのできないSNS色々。

 

老若男女、公私、喜怒哀楽、個々人が思い思い、どこに届くかもわからない、どこに届けるわけでもなく、毎瞬毎秒、つぶやき、洩らし、語り、吐き出し、何かを電波にのせて表現している。

 

改めて、SNSというのは面白いものだなとしみじみ考えていた。顔も見たことも会ったこともない、遠く離れた知らない誰かと、電波を通じて浅くも深くも良くも悪くも何かを共有し交流することができるのだから。

 

誰かが何の気なしに発した表現が、私が何の気なしに発した表現が、いつの間にか遥か彼方の知らない誰かに届いている。

 

それはまるで光の瞬きのように一瞬キラッと光って、そしてたちまち消えていくのにもかかわらず。車窓から眺める景色のようにしっかり見つめなければたちまち通り過ぎていくような速度で。

その一瞬の光を流れ星のように見つめるか、たくさん瞬く星の中の視野にほんのすこし入っただけの極く小さなただの光の1つにすぎないと見つめるかは人それぞれだけれど。どんな光を見つめ捕まえるかも人それぞれで。

 

それでも毎分毎秒、たくさんの想いが込められた”つぶやき”や”表現”がキラキラととめどなく今この瞬間にも、自分では知り得ない宇宙のようにどこまでも広がる果てのない漆黒の空間で、ぽこぽこと産み落とされては、小さく光って消えて、小さく光っては消えて行ってる。そんな力強くも儚く流動的な世界に私はいるのだなと思ったら、こうして生きていることがなんとも言えない気持ちになった。

 

ほんのすこし接触するだけの一瞬のたわいもない出会いもあれば、意図せずに、思いもよらなかった、たまたま見た言葉やメッセージ、その人との交流が深く心に響き、いつの間にかその時の自分の人生に深く影響している時もある。

 

今日、たまたまSNSを見ていて改めて、そんな”初心”を思い出すツイートを見つけたので、備忘録としてその時に思い出したことを書き残して置きたい。

 

そのツイートは、作家さんを褒めて応援して育てていくことの大切さみたいなあたたかな内容だとか、やる気をもらった嬉しかったなどといった内容。

 

それを読んだ時に、ふと思い出したことがあった。

 

今でこそ、SNSを通じて自分の作品や活動、自分が思っていることをあてもなく発信したりしながら、色んな方と交流したりすることがごく当たり前のようにできるようになった私であるけれど、よくよく振り返れば私のSNS歴はとても浅く、使い始めたのは2015年の1月末からで、それまではSNSとは一切無縁の生活を送っていた。

 

それまで頑なにSNSを使うことをしてこなかった私が、心境の変化もあり、2015年1月末から何の気なしに何もわからないままにコソコソ密やかにTwitterやらブログやらを使い始めた最初の頃、今でも忘れられないとても嬉しいことがあった。

 

ブログを始めたばかりの当初、仕事上の作家としての表現と発信の場として立ち上げたのが主な目的としつつ、お気楽にその時におもっていることやらもつらつらとりとめなく書いたりつぶやいたりもしていた。

 

本当にどこの誰が読んでくれるのかもよくわからない、何を手掛かりに私のブログに辿り着いて読んでくれているのかさえもわからないけれど、ポロポロと誰かがアクセスしてくれているのがだんだんわかってきて、電波とはなかなか面白いなと思い始めていた。

 

けれど、まだ沢山の人と繋がるわけでも交流するでも反応が返ってくるわけでもなく、ほぼ無反応の独り言状態でもあった。

 

ちょうどSNSを始めたその頃、試行錯誤を重ね10年もの年月をかけて作り続けていた作品がようやく完成形に近い表現にやっと辿り着いた手ごたえを感じていた時期でもあり、さっそくSNSを通じて誰かに見てもらえたらいいなと、まぁどうせ反応薄いだろうけれど、期待もせずにとりあえずブログに作品をアップしてみることとしたのだ。

 

後日確認すると、そのブログを見た人が初めて1人だけ、”イイね”をしていてくれていた。

 

そう、たった1人だけ(笑)

 

けれどその時の私にとっては、1000人、1万人にイイねされるくらいに、それが本当に嬉しかったのだ。

 

その作品自体を全く知らない人に見てもらうことが初めてだったし、その作品にたどり着くまでにたくさんの試行錯誤と紆余曲折があったので、たった1人だけの”イイね”がその時の私には本当に嬉しかったし、作品を描いていくうえでとても励みになったのだ。

 

もしかしたら、その時の”イイね”はその人にとっては何の気なしのものだったかもしれないし、”イイね”をしたことなどもすっかり忘れてしまったかもしれない。

 

徹底的に自分と作品に向き合い、何かを作り続けることは、作り続ける限りいつまでも終わりがなく、いつもとても孤独だなと思う。だからこそ、他者に作品表現を受け取ってもらって、やっと本当に作品が仕上がるのだといつも思っている。だから、その時は本当に嬉しかったなぁと、そのツイートをみた時、あの初めてSNSで反応が返ってきた時の気持ちをつい思い出してしまったのだ(笑)

 

あの時の、一瞬の瞬きのような触れ合いに、改めて感謝したい。

 

そして、今もこうして色んな方に陰ながら応援していただいたり交流できることにも改めて感謝したい。

 

さて、これからもコツコツ自分らしく素直に、表現し続けるべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その4 弱さという強さ②

私は長年、生まれながらの虚弱体質から脱却すべく、今まで色んな方法で体質改善を自分なりに試してきました。

 

けれど最近になって、本当は「方法」よりも「在り方」の方が大事なんじゃないかなと、思うように至りました。

 

今までの私は、確かに、身体に良さそうな色んな方法や手段を沢山試してきた甲斐もあって、以前よりも身体が強くなったし、そう実感もしています。

 

けれど、本当に心身の健やかさを実感できているかと自問してみたら、どうもそうは感じられないのです。これだけ色々やってきているのにも関わらず、なぜなのだろう?根本的な何かが、どうも違うのだよなぁ…という感覚がいつまでもつきまとっていました。

 

そして、つい最近になって、一番根本的な問いにようやく突き当たりました。

 

「そもそも私は、自分の身体を愛しているだろうか?」と。

 

私は病気がちで自分の思い通りになかなかならない身体をいつも無理矢理力ずくで動かしてきたのではないだろうか?思い通りにならない身体を好きになれず、今までずっと嫌ってきたのかもしれない…と思いました。

 

弱い身体を好きになれず、必死に別の強い身体になろうとしてきたのかもしれないと。

 

そんな私だから、自分の身体を労ろう、大切に扱おう、身体の喜ぶことをしようという発想になるはずもなく、身体を如何にして自分の思い通りの健康的な状態にコントロールできるか、いうことをきくようにするかと、そんな風に身体に接してきたのかもしれません。

 

本当に女子らしからぬ身体の扱い方ですよね。。(汗)

 

いくら一時的に健康であったとしても、常日頃、身体を愛し大切にできていなければ、身体は健康を保てるはずもありません。美しく咲いた花でさえ、世話をせず愛でずに無視し続ければすぐ枯れてしまうのと同じです。

 

この歳になってようやくそんな当たり前のことに、やっと気がついたのです…(汗)

 

そう気づいたら、急に私は身体さんに申し訳ない気持ちで一杯になりました。

今までどれだけ身体さんは私のために健気に頑張ってきてくれただろう…

 

身体さん、ごめんね…

 

今からでも遅くはない!身体さんとちゃんと対話して好きになりたい…

 

そんな訳で、改めて昨年秋頃から意識的に自分の身体を労わり、丁寧に向き合うことを心掛けることを少しずつ始めたのでした。

 

それは本当になんてこともないことで。

 

お風呂にゆっくり入ったり、丁寧にオイルマッサージをしたり、時々ヨガをしたり、散歩したり、身体によい美味しいものを食べたり、着たいなと思った服を着てオシャレを楽しんだり、美容室でヘッドスパしてもらったり、夜寝る時にアロマオイルの香りで癒されたり、疲れたら無理をせず、温かくして、よく休んだり眠ったり、、、

 

身体の声に耳をかたむけ、身体を可愛がるように大切に扱い、身体が心地よいと感じ喜ぶことを思いつく限り色々楽しんでやってみました。

 

おお!なんて女子な生活!(爆)

 

意識的にそんなことを始めてみると、如何に自分は今までそんなことさえもちゃんとしてこなかったのか、、、

しみじみ気づかされたものです。

とほほ。

 

そして、そんな生活を意識的に始めてから約半年。この春にビックリするような変化が身体に現れたのです。

 

なんと、突然の皮膚疾患を発症したのです!

 

え?丁寧に大切にしてきたのに病気になっちゃったの?全然だめじゃない?って思われたかもしれません。

 

けれど、私は皮膚疾患が現れたことを密かにチャンスかもしれない思っていました。そして、私の身体さんに感謝していました。

 

なぜかというと、その時私は、身体の”大掃除・デトックス”ができる大きなチャンスがやってきたと思ったからです。

 

 

その5に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その3 弱さという強さ①

私には長い間、身体的劣等感があったように思います。

 

それは外見的なものというより、「元々もつ身体の力が弱い」という劣等感。

 

元々私は小児喘息持ちで、季節の変わり目などには必ず風邪をひき、その度に喘息の発作を起こし、いつも学校を休みがちな虚弱体質な子供でした。

 

一度発作が起こると、生きた心地がしません。まともに呼吸ができなくなるのです。いつもこのまま呼吸ができなくなって死んでしまうのではないかと思いながら、何も出来ず布団の中で小さくうずくまり、うつ伏せになりながら背中でなんとか必死に呼吸をして、ただただ早く発作が過ぎ去ってくれないかと、朦朧とやり過ごすことしか出来なくなるのです。

 

なので、発作が起こるとすぐ緊急で病院に連れて行かれ、いつも吸入器のお世話になりました。吸入器をかけた後は、あの発作がまるで嘘のように呼吸がスムーズにできるようになるのです。

 

私にとって、吸入器はまるで魔法のようなものでした。

 

そんな訳で私は、頻繁に病院に通っては大量のお薬に頼るということが当たり前の子供時代を過ごしてきました。

 

そして、段々と成長するにつれて体力もつき、女子なので思春期頃には月のものも始まり、身体の自然な変化に伴っていつの間にか小児喘息の発作が起こることもなくなりました。

 

喘息が起こらなくなり、長年の病院通いやお薬を飲むことから解放されたことは私にとってとても大きなことでした。それ以来私は、子供時代の反動もあってか、病院通いもお薬に頼ることも殆どしなくなりました。

 

というのも、子供の頃、体調を崩す度に処方される大量のお薬を飲むことが毎回すごく苦痛で、嫌気がさしていたことと、子供ながらに、なんでこんなにお薬は不味いのか、そして、なんでこれほどまでに大量のお薬を飲んでいるにもかかわらず、一時的に治ってもまた度々病気になるのか、病気が完治しないのか素朴に疑問だったのです。そして、薬に依存し続けたくなかったのです。

 

小児喘息は自然と治ったとはいえ、その後は身体の別の不定愁訴に度々見舞われるようになりました。その度に、あいも変わらず「私って身体がホント弱いなぁ…なんでこんなに身体が弱いんだろ…ホントに健康体になりたい…」と自分の生まれ持った虚弱体質を憂い悩みながら、ずっと自分の弱い身体に向き合わざるをえない日々を過ごしてきました。

 

そして、いつも何かある度に「身体さえもっと強ければ○○出来たのではないか?とだけは思いたくはないなぁ…いつも身体の不調を精神力でカバーし続けるにも限界があるよなぁ…」とも心の何処かで思っていたので、私にとって「如何にして心からの健康体を保つか」ということは、生きていく上で長年の重要なテーマになっていました。

 

 どんなに無視しても、忘れたフリしても身体があらゆる症状をもってして「自分の身体」「健康」というものを嫌でも意識させてくるのです。

 

そして、当たり前のことなのですが、何事につけ、根本に身体がなければ、この世では、為すことも成せないのですよね。精神力だけでは…

地に足をつけて生きるには心の乗り物である身体を健康に保つことはホントに重要なことだなとつくづく思います。

 

そんな訳で私は、根本的な体質改善をすべく、自分なりにできそうな興味が沸いたことを色々試してきました。食事、運動、ヨガ、断食、、、、

 

どれもそれなりに自分に合っていて効果もあるし、役立つなと思うものがたくさんありました。劇的に根本体質が変わったかというとまだ道半ばかなぁと思いますが、少しずつ、でも確実に私に変化をもたらしてくれてきたように思います。

 

 

その4に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その2

すごくややこしい話をする。

 

もしかしたら今までの私は、「身体がある」という意識がとても希薄な人間だったのではないかと、最近 やっと自覚した。

 

というより、無意識に「身体がある」ことに抵抗し続けてきたのかもしれない。

 

それは何故かと考えてみたら、無意識に「身体があることがすごく窮屈」と感じながら生きてきたからだと思う。

 

身体に魂が拘束されて、閉じ込められて、周りから断絶されている感覚、身体があるが故の不自由さ、いつも、身体という境界線が私と誰か・何かを区別し隔てているが故に感じる孤独。

 

あらゆる区別や条件に関係なく、身体を飛び越えて、精神が、心が、自分と誰かや何かの境界線を溶かして、どこまでも繋がりたいのに、身体が邪魔しているように感じるジレンマ。

 

かと思えば、心の同化が行き過ぎて、その後、自他の違いの現実を思い知っては、結果、違いを受け入れられない時に、裏切られたと感じたり、傷ついたり。もしくは、そうなるのが怖くて、身体を相手と自分を隔てる壁や鎧のようにして、心を閉じ込めて自分を守り孤立していったりするのかもしれない。

 

心と身体のズレ。
置いてけぼりを食らう、身体、もしくは心。

 

今までそんな感覚をたくさん経験してきたように思う。

 

そして、これは私独自の感覚ではなく、多かれ少なかれ誰しもが生きていく途上のあらゆる場面で経験する共通の感覚なのでは?とも思う。

 

何故なら、極端な言い方をすると、人が抱える悩みの多くは、大抵、大元を辿れば、身体性に由来するものばかりだと思うからだ。

 

人種・性別・容姿・セクシャリティ・身体能力・出自・家族構成・生育環境・貧富・生老病死など…

 

こういった諸条件は「身体を持つ」が故に発生する。

 

身体を持ったが故に発生した条件や区別に縛られながら、人は日々生きている。

 

そして、その条件は存在する人の数だけ違うし、同じものなどは1つとしてなく、存在する人の数だけのバリエーションがある。

(さらに、かつて存在した人の数だけバリエーションの記憶もある)

 

そして、「生きる」ということはきっと、自分や相手に与えられた「身体性から発生した初期設定」を受け入れた上で、いかにそれを楽しめるか、面白がれるかなのかもしれない。

 

そして、その初期設定自体を無視して否定し受け入れずにいると、徹底的に初期設定を思い出させるような出来事ばかりが起こったりするのだなぁとも思ったり。

 

当たり前のことだけれど、身体と心は切っても切れないものなのだし、身体がないとこの世では生きてはいけない。

 

そして、時に、心よりも身体の方が本当の答えを知っていたりすることもあったりする。

 

手のひらを合わせる時、自分の右手と左手が、疑いもなく同時に動きズレることなくピタリと重なるみたいに、自分の心と身体のズレが消えて一体化していった時に、きっと、色んな条件や区別からも解放されて、真実、自由自在になれるのかもしれない。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その1

最近、私の心が私の身体と仲直りし始めているのを日々感じている。

 

なんじゃそりゃ?って思われるかもしれないが、仲直りって言葉が一番しっくりくる表現だから、その通りにとりあえず書く。

 

私の心が私の身体さんに「ただいま〜」と言って、私の身体さんが私の心に「おかえり〜」って返す、そんなやりとりを、半年間くらい、もしかしたらそれよりもっと以前から、無意識に本当はやりたくて、そして少しずつやり始めていたのかもしれないなと、最近、ふと、気づいた。

 

そして、最近はそんな「おかえり〜」と「ただいま〜」のやりとりが無意識から意識的になり始めている。

 

更に、最近はそんな「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりが、前よりもできるようにちょっとずつなってきたかも?とも思う。

 

と、同時に、振り返ると以前は、「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりがすごくテキトーだったかもしれないとも気づき、思い出すにつれ「ごめん。私の身体さんよ…」と私の心は身体さんに語りかけずにはいられないのだ。

 

ぞんざいな扱いを受け続けてきたにも関わらず、健気にもいつも支え続けてくれた私の身体さんよ…

 

私の心は無言で、「ただいま〜」も言わずに、「おかえり〜」と言いたい身体さんを無視し、お腹がすいたからとりあえずガソリン補給みたいに快感中枢の感じるままに食べて飲んで身体さんに負担をかけ、お風呂もカラスの行水みたいに済ませて身体さんを丁寧に扱わず、健気に私の心に話しかけたい身体さんの話も聞かずにサッサと眠りにつき、翌日も身体さんの「いってらっしゃい〜」を聞かずに私の心は身体さんに冷たく接して生きていたように思う。。

 

まるで、ワーカホリックな旦那とそれを黙って支え続ける古風な妻みたいな例え話だけれど、大袈裟だけどそんな風にだったかもと感じた…

 

(笑)

 

このままでは、妻に逃げられる…

そして、妻に逃げられる時こそ、あの世に行く時なんでしょう…だって、心が身体さんを失う時は、死を意味する時なのだから。

 

それはイカン!(笑)

本末転倒!身体を失っては意味がない!

これでは浮遊霊だ!(笑)

 

もしくは、ただ風雨を避けて寝るだけの、最早、巣としてだけの機能と化した手入れもされない家と、その家人のような。

 

 風雨で長年傷ついたところも気づかぬふりして放置して、修理もせず、磨くことも飾ることもせず、なんだか可哀想なことをしてきたなと、一人反省会をするに至った私。

 

最近やっと、ちゃんと身体さんの声を聞きたいなぁと、身体さんを労わり、大事にし始めたら、どうやら、身体さんがそれに気づいて、身体さんも喜んでくれて、そのうち、私の心に以前とは違うように話しかけ始めてくれるようになったと感じる。

 

そんなわけで、私の心と私の身体さんのコミュニケーションがだんだんと楽しくなってきたようなので、しばしこの調子で「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりを楽しく続けていこうかなと思う。

 

そしたらきっと、私の心と私の身体さんが、いつか、長年連れ添った老夫婦みたいに、なにも言わずとも「あうんの呼吸」になる日が来るかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じゆーだ!

たとえ

一瞬の

夢だろーが、

幻だろーが、

仮初めだろーが、

私の世界は

全部

ホントーだ。

嘘も、

誤魔化しも、

逃げも、

隠れも、

したくない。

 

どんな環境でも、

どんな状況でも、

ホントーは

じゆーだし、

全部自分の心次第。

私は私だ。

 

遊べー!

楽しめー!

味わえー!

感じろー!

 

全方位

五感も第六感も

総動員だ!

 

それでよし。

これぞ平和。

 

 

一足早いクリスマスプレゼント

2016年も、早いもので残すところあと一週間となりましたね!

 

今週末は、老若男女お待ちかねの楽しい楽しいクリスマスですが(笑)、今日私は、一足お先に素晴らしいクリスマスプレゼントをいただきました〜。

 

ちょうど外国の美術大学の一学期を終えて年末年始に一時帰国したばかりの、かつての教え子と、ついに10年越しの再会を果たしたのです〜!!

 

やったぁ〜〜〜〜!!\( ˆoˆ )/

 

その教え子から、インターネットを通じて私のところに突然連絡が入ったのは、ちょうど約一年前。

 

かつて主宰していた絵画教室を閉めて、当時まだ小学生だった教え子たちとはまったくの音信不通になって約10年、まさかこんな形で、電波での再会を果たすことになるなど思ってもみなかったので、教え子からの突然の連絡には本当に驚いて、喜んだのですが、

あれから更に約一年後、ついに、本人と直接の再会を実現することができたのです!

 

すごぉ〜〜いっ!!!

 

こんなことって、実際におこるんだなぁぁ〜〜。

 

なんといいますか、ちょっと大袈裟ですけど、ホントに頑張って生きてきてよかったなぁ〜〜と、今日は思いました〜。

 

そのくらい、本当に嬉しかったのです!

 

 

10年ぶりに教室当時のコミュニケーションノート(交換絵日記)も持ってきてくれて、ちょー懐かしすぎて、思わず泣きそうになりました(笑)すごく綺麗に保管してくれてるんだもの!

 

しかも、10年前の私の描いた絵、自分で言うのもなんだけども、うまかった(笑)

 

そして、一番なにより嬉しかったのは、やっぱりかつての話よりも、成長した今の教え子に会えたこと。そして、今の教え子が学校の授業で描いたデッサンや絵をたくさん見せてくれたこと、今の話や、これからの夢や目標をたくさん聞かせてくれたことでした。

そして、かつて自分も同じように悩み、勉強してきたことを、こんな形でシェアすることができたのも嬉しいことでした。

 

しみじみ、こんな風にまた、違う形で教え子と関われる日がくるなんておもってもなかったので、有難いなぁ〜、自分はつくづく幸せ者だなぁ〜と、今日はしみじみと感じています。

 

2016年、締めくくりにこんなサプライズプレゼントが待っていようとは…(笑)

 

これだから、人生は面白い。

来年もきっと良い年になりそう(^^)