「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

からだがあるわたし。その2

すごくややこしい話をする。

 

もしかしたら今までの私は、「身体がある」という意識がとても希薄な人間だったのではないかと、最近 やっと自覚した。

 

というより、無意識に「身体がある」ことに抵抗し続けてきたのかもしれない。

 

それは何故かと考えてみたら、無意識に「身体があることがすごく窮屈」と感じながら生きてきたからだと思う。

 

身体に魂が拘束されて、閉じ込められて、周りから断絶されている感覚、身体があるが故の不自由さ、いつも、身体という境界線が私と誰か・何かを区別し隔てているが故に感じる孤独。

 

あらゆる区別や条件に関係なく、身体を飛び越えて、精神が、心が、自分と誰かや何かの境界線を溶かして、どこまでも繋がりたいのに、身体が邪魔しているように感じるジレンマ。

 

かと思えば、心の同化が行き過ぎて、その後、自他の違いの現実を思い知っては、結果、違いを受け入れられない時に、裏切られたと感じたり、傷ついたり。もしくは、そうなるのが怖くて、身体を相手と自分を隔てる壁や鎧のようにして、心を閉じ込めて自分を守り孤立していったりするのかもしれない。

 

心と身体のズレ。
置いてけぼりを食らう、身体、もしくは心。

 

今までそんな感覚をたくさん経験してきたように思う。

 

そして、これは私独自の感覚ではなく、多かれ少なかれ誰しもが生きていく途上のあらゆる場面で経験する共通の感覚なのでは?とも思う。

 

何故なら、極端な言い方をすると、人が抱える悩みの多くは、大抵、大元を辿れば、身体性に由来するものばかりだと思うからだ。

 

人種・性別・容姿・セクシャリティ・身体能力・出自・家族構成・生育環境・貧富・生老病死など…

 

こういった諸条件は「身体を持つ」が故に発生する。

 

身体を持ったが故に発生した条件や区別に縛られながら、人は日々生きている。

 

そして、その条件は存在する人の数だけ違うし、同じものなどは1つとしてなく、存在する人の数だけのバリエーションがある。

(さらに、かつて存在した人の数だけバリエーションの記憶もある)

 

そして、「生きる」ということはきっと、自分や相手に与えられた「身体性から発生した初期設定」を受け入れた上で、いかにそれを楽しめるか、面白がれるかなのかもしれない。

 

そして、その初期設定自体を無視して否定し受け入れずにいると、徹底的に初期設定を思い出させるような出来事ばかりが起こったりするのだなぁとも思ったり。

 

当たり前のことだけれど、身体と心は切っても切れないものなのだし、身体がないとこの世では生きてはいけない。

 

そして、時に、心よりも身体の方が本当の答えを知っていたりすることもあったりする。

 

手のひらを合わせる時、自分の右手と左手が、疑いもなく同時に動きズレることなくピタリと重なるみたいに、自分の心と身体のズレが消えて一体化していった時に、きっと、色んな条件や区別からも解放されて、真実、自由自在になれるのかもしれない。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだがあるわたし。その1

最近、私の心が私の身体と仲直りし始めているのを日々感じている。

 

なんじゃそりゃ?って思われるかもしれないが、仲直りって言葉が一番しっくりくる表現だから、その通りにとりあえず書く。

 

私の心が私の身体さんに「ただいま〜」と言って、私の身体さんが私の心に「おかえり〜」って返す、そんなやりとりを、半年間くらい、もしかしたらそれよりもっと以前から、無意識に本当はやりたくて、そして少しずつやり始めていたのかもしれないなと、最近、ふと、気づいた。

 

そして、最近はそんな「おかえり〜」と「ただいま〜」のやりとりが無意識から意識的になり始めている。

 

更に、最近はそんな「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりが、前よりもできるようにちょっとずつなってきたかも?とも思う。

 

と、同時に、振り返ると以前は、「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりがすごくテキトーだったかもしれないとも気づき、思い出すにつれ「ごめん。私の身体さんよ…」と私の心は身体さんに語りかけずにはいられないのだ。

 

ぞんざいな扱いを受け続けてきたにも関わらず、健気にもいつも支え続けてくれた私の身体さんよ…

 

私の心は無言で、「ただいま〜」も言わずに、「おかえり〜」と言いたい身体さんを無視し、お腹がすいたからとりあえずガソリン補給みたいに快感中枢の感じるままに食べて飲んで身体さんに負担をかけ、お風呂もカラスの行水みたいに済ませて身体さんを丁寧に扱わず、健気に私の心に話しかけたい身体さんの話も聞かずにサッサと眠りにつき、翌日も身体さんの「いってらっしゃい〜」を聞かずに私の心は身体さんに冷たく接して生きていたように思う。。

 

まるで、ワーカホリックな旦那とそれを黙って支え続ける古風な妻みたいな例え話だけれど、大袈裟だけどそんな風にだったかもと感じた…

 

(笑)

 

このままでは、妻に逃げられる…

そして、妻に逃げられる時こそ、あの世に行く時なんでしょう…だって、心が身体さんを失う時は、死を意味する時なのだから。

 

それはイカン!(笑)

本末転倒!身体を失っては意味がない!

これでは浮遊霊だ!(笑)

 

もしくは、ただ風雨を避けて寝るだけの、最早、巣としてだけの機能と化した手入れもされない家と、その家人のような。

 

 風雨で長年傷ついたところも気づかぬふりして放置して、修理もせず、磨くことも飾ることもせず、なんだか可哀想なことをしてきたなと、一人反省会をするに至った私。

 

最近やっと、ちゃんと身体さんの声を聞きたいなぁと、身体さんを労わり、大事にし始めたら、どうやら、身体さんがそれに気づいて、身体さんも喜んでくれて、そのうち、私の心に以前とは違うように話しかけ始めてくれるようになったと感じる。

 

そんなわけで、私の心と私の身体さんのコミュニケーションがだんだんと楽しくなってきたようなので、しばしこの調子で「ただいま〜」と「おかえり〜」のやりとりを楽しく続けていこうかなと思う。

 

そしたらきっと、私の心と私の身体さんが、いつか、長年連れ添った老夫婦みたいに、なにも言わずとも「あうんの呼吸」になる日が来るかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じゆーだ!

たとえ

一瞬の

夢だろーが、

幻だろーが、

仮初めだろーが、

私の世界は

全部

ホントーだ。

嘘も、

誤魔化しも、

逃げも、

隠れも、

したくない。

 

どんな環境でも、

どんな状況でも、

ホントーは

じゆーだし、

全部自分の心次第。

私は私だ。

 

遊べー!

楽しめー!

味わえー!

感じろー!

 

全方位

五感も第六感も

総動員だ!

 

それでよし。

これぞ平和。

 

 

一足早いクリスマスプレゼント

2016年も、早いもので残すところあと一週間となりましたね!

 

今週末は、老若男女お待ちかねの楽しい楽しいクリスマスですが(笑)、今日私は、一足お先に素晴らしいクリスマスプレゼントをいただきました〜。

 

ちょうど外国の美術大学の一学期を終えて年末年始に一時帰国したばかりの、かつての教え子と、ついに10年越しの再会を果たしたのです〜!!

 

やったぁ〜〜〜〜!!\( ˆoˆ )/

 

その教え子から、インターネットを通じて私のところに突然連絡が入ったのは、ちょうど約一年前。

 

かつて主宰していた絵画教室を閉めて、当時まだ小学生だった教え子たちとはまったくの音信不通になって約10年、まさかこんな形で、電波での再会を果たすことになるなど思ってもみなかったので、教え子からの突然の連絡には本当に驚いて、喜んだのですが、

あれから更に約一年後、ついに、本人と直接の再会を実現することができたのです!

 

すごぉ〜〜いっ!!!

 

こんなことって、実際におこるんだなぁぁ〜〜。

 

なんといいますか、ちょっと大袈裟ですけど、ホントに頑張って生きてきてよかったなぁ〜〜と、今日は思いました〜。

 

そのくらい、本当に嬉しかったのです!

 

 

10年ぶりに教室当時のコミュニケーションノート(交換絵日記)も持ってきてくれて、ちょー懐かしすぎて、思わず泣きそうになりました(笑)すごく綺麗に保管してくれてるんだもの!

 

しかも、10年前の私の描いた絵、自分で言うのもなんだけども、うまかった(笑)

 

そして、一番なにより嬉しかったのは、やっぱりかつての話よりも、成長した今の教え子に会えたこと。そして、今の教え子が学校の授業で描いたデッサンや絵をたくさん見せてくれたこと、今の話や、これからの夢や目標をたくさん聞かせてくれたことでした。

そして、かつて自分も同じように悩み、勉強してきたことを、こんな形でシェアすることができたのも嬉しいことでした。

 

しみじみ、こんな風にまた、違う形で教え子と関われる日がくるなんておもってもなかったので、有難いなぁ〜、自分はつくづく幸せ者だなぁ〜と、今日はしみじみと感じています。

 

2016年、締めくくりにこんなサプライズプレゼントが待っていようとは…(笑)

 

これだから、人生は面白い。

来年もきっと良い年になりそう(^^)

 

 

 

 

 

 

 

108 その2

(*2015年12月に書いた文章です)

 

さて、昨日の朝の小話をひとつ。。


昨日は午後からの外出まではちょっとゆっくりできるとばかりに、のんびり起床とお布団でぬくぬく至福タイムをグズグズ決め込んでいたのですが、

(単に寒くてお布団から出たくなかった(ーー;))

すっぽりみのむしスタイルの私の元に母が、突然あわあわしながらやってきまして、


「大変だよぉぉ~!どうしようかねぇ~!
入れ歯を洗濯機の裏に落としちゃったよぉぉ~!!あんた取ってくれないかい~?」


と。。。

 

 


…母よ


なんで今なのよっ!!


(T . T)ぐっ…


緊急要請だ、仕方ないわねっ!!


斯様にして、みのむしは母の入れ歯に至福タイムを奪われた。。。


否、怠け者は、このようにして叩き起こされるのであります。(T . T)


巣から出て、ぶちぶちいいながら、懐中電灯を地震グッズから引っ張りだし、洗濯機裏を照らし出すと入れ歯発見!
が、手が届かない!


なんちゅーところに!!


…もう(T . T)


起き抜けの頭であらゆる知恵を絞って、そして、なんとか母の入れ歯を無事救出!


そして入れ歯を見ながら安堵する親子。。


「もう、お願いだから、洗濯機の裏だけはやめてよぉぉぉ!」


と、捨て台詞を吐きながら母を見ると、あっという間に母は入れ歯を装着しておられた。。


「命の次に大事な入れ歯だよぉ~。今日はあんたがいてくれて本当によかったよぉぉ~」と母。

 


…母よ


入れ歯の順位高すぎやしないか!?


( ̄◇ ̄;)


命の次って!!


…まぁ確かに母は食いしん坊ですからね。


母の飽くなき食への興味は素晴らしく。


いつも旅番組を見ながら、新聞広告のチラシを見ながら、雑誌や新聞を見ながら、、あれが食べたいこれが食べたいと夢を膨らませる母に、いつしか御供物のようにご飯をせっせと作り食べさせるようになった私。。


母は地蔵か仏さんか!


( ̄◇ ̄;)


なので、入れ歯さんはかなり母の喜びに貢献してくれている「恩人」…否、「恩歯」、、、


母の幸せを支えている大事な存在!


いやはや私、朝からいい事したな。


グッジョブ!


母にお礼を言われ、ご飯を美味しそうに食べる母を見たら満足した単純な娘であった。。


さて、今日は何を食べさせてあげようかしら、、、( ´ ▽ ` )

 

108 その1

(*2015年10月に書いた文章です)

10月8日といえばお友達のお誕生日なんですが、


彼女はいつもスカートをはいていて、のほほ~んとした、天然系ののんびりした話し方をする、ふわっと柔らかな女の子らしい人なんですが、、、


わたしったらね、あろうことか、、、


そんな可愛らしい彼女のお誕生日を、、


…どーしても、


…どーしても、


『108 =いれば=入れ歯』


としか、覚えられなくてですね、、、


(T ^ T)


…ホンットに、ごめんなさい(T ^ T)


それからというものの、彼女を見ると反射的に『入れ歯』って言葉が浮かんでしまうようになりまして、、、( ̄◇ ̄;)


終いには、入れ歯を見るたびに、彼女を思い出しまして、、、(>人<;)


あーーーっ!!(>人<;)


あたいのバカッ!!


どおしてもっと、まともな語呂合わせが思いつかなかったのかしらん、、(T ^ T)


彼女と入れ歯になんの共通点もないじゃない!


今は疎遠になってしまった彼女、


元気かしら、、、


(T ^ T)

 

 

 

『入れ歯』といえば、


亡くなった父上の『入れ歯』。


自宅看護中の生前の父上は、ごはんを美味しく食べるために、ギリギリまで訪問歯科の先生に入れ歯の調整に来て頂いたお陰もあって、


亡くなる前日まで好きなものをしっかり食べられたのですが、


(最後の晩餐が寿司と餃子でしたからねぇ。。父上らしい。。(^_^;))


亡くなって4日目、自宅に御安置していた父上のラストメイクを化粧師さんにしてもらった時に、


「入れ歯を外して、代わりに綿を詰めた方がお顔がふっくらしていいですよ~」


とのことで、その時入れ歯を外してもらったのですが、その後、うっかり棺に入れ忘れてしまいまして。。


ガーーン!!∑(゚Д゚)


し、しまった~!!


『入れ歯さん』も父上と燃え尽きる予定が!


大事な相棒の『入れ歯さん』をこの世においていってしまったじゃないか!!


あんなにギリギリまで大活躍してくれた『入れ歯さん』!


父上と一心同体だった『入れ歯さん』!!


二人はあの世とこの世に離れ離れ!!


父上、すまん!!


(T ^ T)

 

…そんなわけで今でも置いてけぼりになった父上の忘れ形見『入れ歯さん』の処分に困ってましてねぇ。。


はてさて、どおしたものか、、、
(ーー;)


なんとなくそのまま捨てるのもね、『入れ歯さん』の功績を思うと気が引けましてねぇ。。


『入れ歯さん』にとってステキな第二の人生の行き先はないかしらん。。


なかなか処分できないのは私の『執着』なのかしらん、、、


それとも、父上が
『もうちょっと食べたかったなぁ~』
っていう食への想いを『入れ歯さん』に託したのかしらん、、、


『食べる=生きる』ですからねぇ。


どちらにしても、『入れ歯』なだけに、『108=煩悩の数』ってことで。


はい。


そもそも生きること自体が、煩悩か。


ははは。

 

 

時は『食欲の秋』。


今日も煩悩のままに美味しく秋の味覚をいただきますかねぇ。。

食べるは生きる その3

なんで人はご飯を食べるんでしょうね?


近頃は健康維持の為の色んな食事スタイルの人がいるよなぁと思ったり。


ベジタリアン
粗食中心の食事、
炭水化物なし、
食べ合わせや食べ順。。


選ぶ食材や食べ合わせ、方法もバラエティーに富んでます。


やってみたらすごく効果があった、なかったというのは人それぞれ。良い悪いではなく、各々の方法や摂取する食材の質がどれだけそれぞれの人の体質にマッチするか。単に合う合わないなんでしょう。。


最近では1日1食とか2食とか、腹6分~8分とか、よく噛むとか、週末断食とか、食事時間帯とか、食事摂取量の方法も色んなスタイルがありますよね。


私も基本1日2食です。


飽食で、栄養過多、生活習慣病が万延する現代人には3食とか満腹よりも、量を減らしコントロールするのはかえって良いんじゃないかと私も思います。


その方が燃費いいし(笑)


成長期の子供とか肉体的に栄養を沢山必要とする人は別として。


昔の人も1日2食だったりしましたしね。。


量を減らす。


それどころか、以前何かで読んだのですが、水以外全くなにも飲まず食べずに”気”だけを取り入れながら何年も普通に生活しているなんて人も実はいらっしゃったりするみたいですね。。

 

…せ、仙人!?( ̄◇ ̄;)


…リアル霞を食べている?!( ̄◇ ̄;)


食事スタイル以前に最早、生命維持活動でもある食事という行為をやめてしまってるんですから。。それでも生きられるんだ、、、って驚きましたが。。


うーむ。。


…食べなくては生きられないってのはもしかしたら思い込み?食べずに生きることがほんとはできるのかも?


 

たしかに時々、食べることが面倒くさくなることもあります。


いっそ食べないで済むなら色々と楽だろなって。


これは断食の時の強烈な感覚体験が由来かもしれませんが、、、


断食中、ある一定の状態を超え食べない状態に慣れてくると、不思議と何を見ても全く食べたいと思わなくなります。


あの時の「食べなければ生きていけない」という絶対に逃れられない根本欲求の呪縛からの大きな解放感。。


あれがね。。(笑)

 

それから意外と日々、「食べる」ために時間をたくさん割いて生活してますし。


3食食べる時間。
3食作る時間。
食材を買う時間。。
食後の片付け。。


食べる行為がなくなったら時間も増える?


オマケに食べ過ぎ由来の病気も減る?

 

これだけ生活の中で時間を割いているということは、それだけ生きていくうえで「食べる」って重要な行為ってコトなんでしょうし、健康まで左右されるコトなわけでして。。


…なんか食べない方がもしかしたらちょっといいんじゃない?


 


と、おもったのですが、もし食べなくても生きられたとしても、やっぱりなにも食べないって楽しくないかもな。


面倒くさくても食べる行為をやめるって生きる楽しみを放棄するみたいでつまらないかもしれない。。


文字通り「味気ない」


人生から味を奪われちゃうんじゃないだろか。。


味は「どう感じる?」のセンサーで。


自分の素直な感情への直通センサー。


そのセンサーを放棄しちゃったら、人間である意味なくなっちゃうような気がする。。


そのセンサーで感じた喜怒哀楽が生きてる世界を文化を作ってるんだものね。。


だから人間は究極、潜在能力的に食べなくても平気なのかもしれないけど、やっぱり肉体があって食べることができる以上は食べたり飲んだりすることを楽しんだ方が絶対面白いよな~っと思ったのでありました。


「食べる」は世界を感じる喜怒哀楽の感情センサーだからね。