「いいゆめ・ゆし・きぶん。」

イラストレーター佐藤右志の脳内備忘録ブログ

織り込むように描きたい③

(*2015年12月に書いた文章です。)

 

漫画を描くことは私にとって、一枚の絵を描くことと同じくらい欠かせないことです。


ありがたい事に、最近は漫画を描くお仕事もちょっとずつさせていただけるようにもなりました~(≧∇≦)


もうちょっと漫画描くお仕事したいです!


漫画って表現はホント面白い!


実際には目に見えない「雰囲気」や「空気感」を、背景模様とか、極端に人や物をデフォルメしたりとか、コマのリズムとか、擬音とかにして描くことができますし。


三次元世界を、千切りするみたいに一コマ一コマ解体、分割して、そこから必要な瞬間だけを抜き出して、出来事のエッセンスを濃縮してコマに収め、再構成、編集しながら二次元世界に閉じ込めてしまうわけでして。


沢山のコマが集まって1ページになり、沢山のページが集まって一冊の本になる。


ある意味、漫画を描くことも一コマ一コマを編み込む機織りのようなものかもしれませんね。


アニメーション制作なんかは、まさにそうで。


何百、何千、何万という絵を繋げたものが、一つの美しい映像作品になるのですから。

そうやって、気が遠くなるような作業によって命を吹き込まれた作品は、本当に素晴らしい。


神聖ささえ感じます。


故に、アニメーション制作は非常に精神力、根気のいる仕事なのではないかと思います。


そもそも私たちが生きている「人生」がパラパラ漫画みたいですよね~。


1分1秒という瞬間の時間の積み重ねたものが人生なのだから。


私たちの人生を一秒単位で解体して、パラパラ漫画に作り変えたのなら、ものすごい膨大な枚数の絵が必要になるでしょう!


その紙を繋ぎ合わせたら、地球を何周できるだろう?


距離にしたら、どの惑星まで辿り着けるだろう?


あまりにも果てしないので、とりあえず1日一枚とカウントして、一生を仮に一年365日×80歳としても29200枚。かなりの枚数を使ったパラパラ漫画になりますね~。


ところで、私は古代マヤ人の使っていた暦を元にした13の月の暦というカレンダーを、かれこれ15年くらい使っていているのですが、(実は暦オタクです。(^_^;))


そのツォルキンという260日周期のカレンダー、まるで、織物みたいなんです。
(^.^)


1日1日を織り込んで260日で一枚のカレンダーという布を作るような世界観。


美しいです。


あ、ちょうど今なら、カウントダウンしながらクリスマスシーズンを過ごすアドベントカレンダーの世界観がよく似ているかも。


毎日を織物を織り上げるように大切に過ごし、自分の人生という布を織り上げたら、お祝いをするという美学といいますか。


古代マヤ人カッコいい~~!


ならば、織り上げる前に「私の人生という布」のデザインを考えなくては。


これからの人生を、

どんな色の、

どんな柄の、

どんな肌触りの布にしてみたい?


この世の人生を全うし肉体という一枚衣を脱ぐ時に、「私という人生の布」はどんな風に織りあがっているのだろう?


「ところどころほつれもあるけれど、味がある愉快で美しい布に仕上がったね!」
と、棺桶にて言いながらお祝いできたらいいですが!(笑)

 

あ、そう言えば、水木先生の奥さまのお名前は布枝さんでしたね。


朝ドラ「ゲゲゲの女房」の人物像や、テレビから拝見したお姿から、お名前の布のようにほわっとあたたかく包容力をお持ちの素敵な奥さまだなぁ~と、女子としては憧れる訳なのですが、


水木先生・布枝さんご夫妻から、中島みゆきさんの「糸」という歌を思い出しました。


いい歌ですよね~。


「~♪縦の糸はあなた、横の糸はわたし」というフレーズが有名ですが、


今では結婚ソングの定番になってますね。


自分は、老若男女出会う人みんなが私にとっての縦の糸と捉えたい!(笑)


そうやって、出会う人みんなと

縦に横にと色とりどりの糸を

織り込むように

交流していけたら

楽しいですよね。

 

きっと、すごく柔らかくて、

あったかくて、

優しい布になると思います!


(^ω^)

 

そんなわけで、布になぞらえたお話、綺麗にまとまったところで終わりにしたいと思います。

 

これからも、織り込むように描きたいな。

織り込むように描きたい②

(*2015年12月に書いた文章です)

 

自分の絵は織物みたいなものかもと、書きましたが、、

よく考えたら私はちいさな頃から模様のような絵ばかり描いておりました!


それはなにかというと、漫画の背景の模様。

 

漫画っ子でしたから。


小さい頃は空気を吸うみたいに、三度の飯的に漫画ばかり描いてましたし。


やはり、漫画の影響は大きいです。


私は末っ子なんで随分早くから、姉たちにまじって字も読めないのに訳も分からずに漫画を「読む」否、「見て」いたので、

漫画特有のコマ割りとか、吹き出しとか、擬音とか、背景の模様とか、大袈裟な表現とかが、面白くて、面白くて!

それで、あれを描きたくて。


なので真似から入って、そのうちオリジナルの物語を作ってよく描いたものです。。


楽しかったですね~。

 

ところで、漫画といえば、昨日突然届いた漫画家の水木しげる先生の訃報。


昨日は色んなメディアが、水木先生の訃報のニュースで持ちきりでしたが、


水木先生といったらやっぱり妖怪。


我々は「ゲゲゲの鬼太郎」をみて育ちましたからね~。


初めは訃報のニュースにガーン!だったのですが、


その後、先生はご自身が描かれていたような妖怪の世界にただ戻っちゃっただけなのかもしれないと思ったら、寂しいという感じじゃなくなんとも自然な感じがしたといいますか。


あの世とこの世を繋ぐような名作を数多く残された先生だからこその説得力かもしれませんが不思議ですね。


なので、あの世とこの世はそんなに遠くにあるわけじゃないのかなぁと感じたり。


あの世は見えないだけで一枚膜を隔てたくらいのすぐ側のものでしかないのかもしれません。


それこそ、一枚の布を隔てただけのような。


昨日書いた子どもたちとのシーツや毛布の布遊びみたいなもので。


あのシーツ越しにこちょこちょされるドキドキ感のような、、、


ガオーと毛布怪獣に食べられくるまれて、真っ暗の毛布でそわそわ何が起こるかジッと息をひそめている時のような、、、


布に隠れてはひょこっと顔を出して見つかって、またビックリして隠れてを繰り返すかくれんぼ遊びのような、、、


きっとあの世ってそんなものなのかも。


肉体という一枚の衣に閉じこもって、何時迄もかくれんぼしているのは、私たちこの世の人間の方なのかもしれません。


しかも、隠れてるつもりが、あの世の妖怪たちにはずーっと丸見えなんですけどね!(^ ^)


死ぬまで終わらない逆鬼ごっこ。


この世の人間の方が実は、鬼だったなんて顛末で。


そうですよね。生きてる人間の方が妖怪なんかよりよっぽど怖いですものね!


何にでもなれる一枚の布のように、自由自在で七変化する妖怪の世界の方が、ずっと愉快なのかもしれないなぁ~(笑)


とりあえずは、
この世で肉体という衣を纏っているうちから、愉快な妖怪になるべく精進したいと思いました~。


そうそう、水木しげる先生みたいなね!


早速、来年の目標ができました!
水木しげる先生ありがとうございます!


( ´ ▽ ` )


ちなみに私は、めだまのオヤジと一旦木綿が好きです。


(≧∇≦)

 


妖怪的な世界観が粋でカッコよい、椎名林檎さんの「神様仏様」のMVが今日書いた内容となんとなく世界観がリンクするなぁ。大好きなMVです。



 

織り込むように描きたい①

(*2015年12月に書いた文章です)

 

だんだんと冬らしくなってきましたね。

 

年末になると世間様の時間の流れが突如早くなるので、
そんなペースに流されず、自分のペースでいつも通りにじっくり作品作りしながらすごしたいなぁとなんとな~く思っておりますが。。


さて、私は絵を描く人間なので、かれこれ長いこと絵を描いてきたわけなんですが、同時に自分の描く絵の変化も、長いこと自ら観察もしてきているわけでして。


(そっか、メタ認知的な作業をしてきてたんだ。。)


描く本質みたいなものはきっと変わってないんだろな~と思いつつ、表現の仕方は年月と共にやはり試行錯誤変化しているもの。


それで、最近ふと、なんとなく自分の絵を見ていて急に思ったんです。


∑(゚Д゚)!


「私、もしかして”描く”というよりも”織っている”のかも!」


と。


…意味わかっていただけますか?


(^_^;)


なんだか自分的にはとってもフィットする感覚に辿り着いたと申しますか。


今の自分の作風は繰り返す模様のような絵なので、まさに機織りするみたいに絵を描いていますし。


そういえば私は、昔から布が好きでした。


ええ、眠るのが趣味ですから(笑)
もうずっと眠っていたいくらい(汗)
怠け者なんですよ(ーー;)


布にくるまれる心地よさ。
柔らかさ、あたたかさ。
安らぎ。


美しい色の、美しい柄の、気持ちの良い手触りの、一枚の布さえあれば、いくらでも遊ぶことができたっけ。


小さな頃は女の子らしく、一人でよくお人形遊びをしたものです。


綺麗な柄のハンカチだとか、ガーゼとか、いらない端切れとかを家中引っ張りだして、ドレスにしたりワンピースにしたり。


それから、甥っ子や姪っ子が今よりも小さかった頃、よく毛布やシーツで一緒に遊ぶのも好きだったな。


毛布を大きな怪物のようにして、子供たちをガバッとくるんで食べちゃったり、シーツの上からこちょこちょしたり(大ウケ!)、かくれんぼしたり。お家や飛行機にして一緒にくるまれて乗ったりすごしたり。


最後は海にして押入れからダイブして泳いだり!(羽布団、敷き布団)


形になってないただの布は、自分の好きなようになんにでもできるから、それが大好きだったんだよね。


布一枚さえあれば、もう充分だったのだよなぁ~。

 

だから、”布”的な感覚の表現物を作りたいっていうのがいつもどこかにあるのかもしれませんね。

 

細いペンや絵筆で線を描くとき、

一本の糸を紡ぐみたいにして、

何本もの色とりどりの糸を紡ぎながら、

同時に縦に横にと織り上げるように、

一織り一織り大切に、

こらからも布的な作品を
描いていきたいなぁと、

ほわんと、
幸せな子ども時代の原風景に立ち帰りながら思ったのでありました~。

I believe と I know

 

「信じる」ことと「知る」こと。

両方必要だなと思う。

 

信じることって、大切なことだけれど、それだけじゃダメだなとも思うし、

 

その逆もしかりで、知ることって、大切だけど、それだけでもダメだなと思う。

 

 

何かを信じることって大事だけど、その信じたものは本当にそうなのかな?

 

何かを知ることって大事だけど、その知ったと思ったものは本当にそうなのかな?

 

知ってたって、信じてなきゃ意味ないし、信じてたって、知らなきゃ意味ない。

 

信じることの究極は宗教などの信仰だけれど、信仰によって心の安泰を得て救われることもあれば、信仰に縛られることによって正しさを主張しあって排他的になり戦争をしあうことだってあるわけで。

 

知ることも、ありのまま見ることができているだろうか。色眼鏡をかけて都合よく解釈して知ったつもりになっていないだろうか。

 

I believe (私は信じる)

I know (私は知る)

 

もっと、混じり気ない真っさらな気持ちで、信じて、知りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一服旅の効能。

人間にはホントに一服が必要だね、旅は心のお薬だねって話をつらつらと。

 

えーと、先づは、私事ですが、いきなり情けない話をしてしまいます。

(なんか暴露しつづけてるなぁ(汗))

 

実は、今年の春頃からですかね、全くのスランプに陥りまして、絶不調でした。

 

ここ数年間、公私共々、休む間もないほど、怒涛のように色んな事が次から次へと我が身に起こりまして、ちょうど今年の春くらいにやっとその嵐がちょっとずつ落ち着き始めた頃、気分転換に久々に一人旅に出たのです。

 

そしたら、どうやら今までの緊張の糸が切れて、力が抜けて緩んでしまったんでしょう…旅から帰ったら、ここ数年蓄積された疲れとかが一気にドバッとでてしまいまして、心身ともに全くヤル気がでなくなってしまったんです。

 

ずっと突っ走り続けて、息切れしちゃったんでしょうね。完全にエネルギー切れ。

 

やる事も、やりたい事も目標もまだまだ一杯あるのに、体も心もついていかなくて、全然だめで、正直、かなり焦りました。

 

無理矢理予定をねじ込んだり、気持ちを鼓舞したりしながらなんとかこなしてはいたのですが、かえって空回りして余計疲れてしまったり、悪循環。

 

もう何をしても全くだめなので、ジタバタせずに、気持ちを切り替えてちょっと休んだ方がいいなと思い、頑張らないことにしたんです。

 

休むと決めたわいいのですが、やはり自分はつくづく日本人。基本、根が生真面目なので、周りが頑張っている中、自分だけが休んだり、誰かに頼ったり、甘えたり、だらけたり、期待に応えられなかったり、努力しない事は、怠けてるんじゃないかとか、いらない罪悪感を感じたり。

 

でも、やはり、ダメな時はダメ。もう開き直って、無理せずに、自然とヤル気が出るまで、必要最低限の活動のみにして、気にせずに休むことにしました。

 

生真面目な人間は、頑張らないことに不慣れなので、休むって結構勇気いりました。現実的に、経済的なことやら色々リスクもあるし、でもまぁそれもなんとかなるだろうと、最後は降参して、先ずはスッキリリセットしようと。

 

そんな訳で、今年は思い切って、もうひと緩み、秋にも一人旅にでてみたのですが、やっぱり旅っていいものだなと思いました〜。

おかげさまで、かなりリフレッシュできました。

 

旅に出ることは、自分にとって知らない場所、知らない人に出会い、非日常空間に身を置き、未体験を体験することを楽しんで心身をリフレッシュするよい機会になりますが、

今回の旅は、あえて、あくせくと予定を詰め込まず、船に乗ってボンヤリと海を眺めたり、お遍路さんみたいに、のんび〜り島の自然の中を歩いて過ごしたりしました。全く派手派手しい旅ではなく、旅先の、当たり前にある自然を味わいながら、普通の日常生活を営む住民のみなさんとあたたかな交流をしたりと、とても素朴な旅になりました。

 

もちろん、アートを巡ることを柱に、「これをしよう」とハッキリした目的も多少はあったのですが、おもしろいことに、そういうことに限って、頑張って動いたことの大半は、結果的にほとんど空振りましたね。(まぁでも、気がすむまで悪あがきできてよかったですが(笑))

 

こう書くと一見、残念にも思えますが、今思うと、「とりあえず、これで実は良かったのかもな」と、割りと納得がいっていることばかりです。でも、やっぱり会いたかった人に会いたかったなぁー!行きたい島にいきたかったなぁー!(まだ悪あがきする)

 

もともと旅の醍醐味って、「行き当たりばったり」とか「偶然性」だったりするから、そういう意味で、起こった出来事、体験したことを良し悪し抜きに総すると、結局は、すべて「これでよし」に落ち着きます。

 

それにしても連日晴れて、ポカポカ陽気でした。有難いことに、とことん、お天気に恵まれましたが、人にも恵まれました。

 

テクテク長い山道を歩いてたら、住民のおばちゃんが車に乗せてくれたりしました。

民泊先のおうどん屋さんのおじいちゃん家は田舎に帰ったみたいに居心地よくて、おふとんがふかふかでぐっすり眠れました。

翌朝、おばちゃんが用意してくれた朝ごはんのしっぽくうどん、メバルの甘酢漬けがサイコーに美味しかったです。灯油ストーブでコトコト煮たという昆布の煮物、作り方教わったからお家で作ってみようと思います。

次の日の民泊先の製麺所のご夫妻さんも優しかったなぁ。翌朝、おじちゃんが軽トラでフェリー乗り場まで送ってくれました。同じくここで民泊していた韓国人の男の人が「犬島休みだよ」とずっと気にかけてくれていたらしく教えてくれたり、なんかみんな神様レベルの優しさだった〜(泣)

 

本当にみんなさりげなく優しくて、あったかくて。自分も素直に遠慮なく甘えさせてもらって、ごく普通の日常生活にすんなり馴染ませていただいて、たくさんお喋りをして、すっかり和んで懐いてしまいました。今回は民泊して大正解でした。

 

一期一会のこういう出会いがあるからこそ、旅に出たくなるんでしょうね〜。

このまま一期一会に終わらせたくないなぁと思えたのもまた、そんな自分の気持ちが嬉しかったり。また必ずみなさんに会いに行きたいです。

 

それにしても、最終日にちょっと奮発して、海辺の町の海が一望できるステキなホテルに泊まったのですが、その夜に、ふと、バルコニーから見上げた星空がびっくりするくらい綺麗で本当に感動しました。

あんなに綺麗な星空を見たのはいつ以来かな?夜空はあんなにも漆黒で、星ってあんなにも水平線ギリギリまでたくさん瞬いていて、あんなにも強く光を放っているんだなぁってことに、ただただ感動して、ずっと眺めていました。

星座の形が全部ハッキリわかるんですもの!毎度ガスった都心の空ではありえません。

 

翌朝、水平線から海を赤く照らしながら昇る太陽の光が、とても眩しくて、そのうち昇った太陽の光が波間をキラキラ滑るように照らす様子があんまりにも綺麗だから、このままずっと時間が止まってしまえばいいのになぁ〜と、思いました。

 

本当に、いつでも、自然にはかないっこないですね。

 

ちなみに、このホテルはホントにすてきでした。ギリシャみたいなコントラストの海の青に映える真っ白なホテルで、館内は隅々までいちいちオシャレでした。お部屋もゆったりくつろげて、夜の料理も美味しかったし、民泊とはまた違った豊かな時間を過ごせました。

 

こんな美しい景色を、毎日のように眺めることができる、この町の人は幸せだなぁ、羨ましいなぁと思いながら、この景色を見られただけで本当に旅して良かったな、きて良かったなと思いました。

 

なんか、思いがけず、全く知らない人や景色から沢山エネルギーもらって、助けられて、癒された旅でした。あらためて旅先で出会った人たち、自然に感謝します。

 

さて、旅から戻り、いつもの日常にもどりましたが、街中は、いつの間にやらハロウィンも終えて、すっかりクリスマスモード。世の流れはホント先取りで早すぎるよ…(汗)

 

年末になると、急に時間の流れが早くなるけれど、私はこれからも、無理せず気負わず焦らず、マイペースに、色んな人と一緒に楽しく関わりながら、活動していきたいなぁ〜と思っているところです。

 

そうだな、旅でみなさんと交流したみたいに。おかげさまで、だいぶやる気がわいてます。今月から、またコツコツ作品作り始めたいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信じることは自由になることだ

(*2016年2月に書いた文章です。)

 

自分を、
誰かを、
目の前に起こる出来事を、
ただ心から信頼すること。


実はそれが、
一番自由でいられることなんだと、
やっと心から気づいた。


だから、ただ起こる出来事を安心してそのまま受け止めたらいい。


信頼しているから。


今、目の前の己れのすべきことに集中していればただそれだけで十分なのだ。


無意識だったけれど、今まで本当はそうやって、当たり前のように生きてきていたことに急に気づいて、それは当たり前にしてものすごいことなんだとしみじみ思った。


忘れてたって、
勝手に呼吸はしてるし、


忘れてたって、
勝手に心臓はトクトク脈打ってる。


毎日安心して眠りにおち、
次の朝には勝手に目覚めてる。


それは”起こること”を信じている前提があるからだ。


もうすでに信じて委ねているからだ。


そして、その当たり前に意識的になって生きてみたなら、それだけでいいのかもしれない。


そしたらそれだけでみんなもっともっと自由になれるように思う。

 

 

補色というギャップのマジック

(*2015年2月に書いた文章です)

 

昨日、荻窪の6次元さんの『点描ナイト』に行ってきました~。

今、東京都美術館にて開催中の『新・印象派』展について学芸員の大橋さんと6次元のナカムラさんが語り尽くす、トークイベントだったのですが、ホント楽しかった!

予備知識があってからの方が楽しめるかなと事前に展覧会に足を運んでから、『点描ナイト』に行ったのですが、学芸員さんのお話を聞いたら、改めてポイントおさえてまた行きたくなりましたね。

印象派の点描技法は色彩理論に基づいて光を分割して描いているそうです。
テレビ画面のあの色の構成ですよね。昔、美術の授業で習った光の三原色の。

この時代に感情とか感性だけじゃない科学的な視点・理論が入っているところがどこかニュートラルなかんじがして私はかなり好きです。ニュートラルというかハイブリッドな感じ?

故に見る人によって、感じ方・印象がすごく極端に分かれるのかもしれません。

『点描ナイト』参加者さん達の点描に対しての感じ方がまたおもしろかったです。

点描の均一な構成が、少し無機質な感じで壊れてしまいそうに儚く感じる方がいる一方で、画面を埋め尽くす膨大な数の点々と完成させるまでにかかった時間などの圧倒的な”密度”を考えると圧迫感というか息苦しくなるというか、突然ずしっと重く、密度に襲われるように感じられる方も。

”軽さと重さ”

おもしろいですよね。

例えば、新印象派の点描技法では赤と緑(補色同士)だけで点々の色面を描けば離れてみてみると黄色に見えたりするような、補色同士を上手く取り入れて画面を構成して描かれているのですが、
”補色”で構成っていう真逆の二色間のギャップが調和してるからニュートラルなものになって、その時々で受ける印象の幅を生み出してるのかしら?と思ってみたり。人によってあかよりなイメージになったり、緑よりなイメージになったり、どっちでもない新しいイメージになったり。と勝手に分析。

目の錯覚みたいな、脳みそが騙されてるみたいな不思議なマジックですよね。
もしかしたら自分達はいつもこんなマジックの中にいきてるのかもしれませんけれど。自分もギャップを感じるほどになんでも楽しいし。。

なので、学芸員さんがおっしゃってたように、離れて作品を遠くからみたり、たまに近づいて見たりのバランスが鑑賞のポイントかもしれませんね。

近づきすぎると細部のそれぞれの色に囚われて、圧倒的な情報量に息苦しくなって途中で鑑賞がやになっちゃうかもな(笑)

個人的にかなり面白かったのは新印象派の流れからの締めくくりにみた、イームズの映像「パワーズ・オブ・点」でした!結局、私達も世界も宇宙も全て点々なんだよねっていう。

ホントに楽しかった!
また『新印象派』展、違った見方をしてきたいですし、オススメです!

早速、今制作中の砂絵にこの色彩理論活用してみたいと思います♪